華道家 新保逍滄

2017年6月23日

2017年6月21日

2017年6月16日

鯨の巨大便(5)


今年、2017年、4月に帰省したところ、郷土の文芸誌「村松万葉」が廃刊になると知らされました。寄稿者のリストをみると、50代の私が最年少の一人という状況ですから、存続は厳しいのだろうと思われます。この文芸誌を創刊され、32年間、継続してこられた文学者、本間芳男先生のご尽力にお礼申し上げます。
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20170329315525.html

「村松万葉」は新潟県の主要な公立図書館で閲覧できるはずですので、機会がありましたら是非ご覧下さい。また、本間先生の作品も機会がりましたら是非どうぞ。児童文学には、相応の枠組みがあるものと思っていましたが(ちょうどディズニー映画が様々なおとぎ話から残酷な部分を排除してしまうように)、先生の作品には、そんな配慮などまったくないのです。直球を子供達の胸にぶつけていく、力強い本物の文学です。
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E9%96%93-%E8%8A%B3%E7%94%B7/e/B004L26GWE
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/131382.html

このブログでも2回ほど「村松万葉」について、言及しています。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_28.html
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/07/blog-post_8.html

今回は、2009年度版に寄稿した原稿、「蛭野・魚・地球」を再録します。そして、鯨の巨大便シリーズはひとまずここまでとします。

「村松万葉は文化遺産だと思う。特に年配の方々の思い出話は貴重なものだ。私達が経験し得ない先人の歩みは私達の人生にとても大きなものをもたらしてくれる。そう言う私自身、もう昔話をしてもいい頃か。甥や姪のためにも祖母や父母のことを書きたい。60~70年代の雪国の農家の生活は厳しく、怠惰の入り込む余地などなかった。今も、朝、起きられなかったり、困難に出会ったりすると、「父母を想え、祖母を想え」と自分を叱咤する。それほどの生き方を残してくれた。しかし、父母の時代については、母が健在だからきちんと話してくれるだろう。今回は私が子供の頃の話をひとつ、ふたつ。

故郷を離れて暮らしているせいか、育った蛭野の夢をよく見る。堤の前あたりに見慣れない建物が建っていたり、慈光寺に通じる別の道があるのを発見したり。そして、魚がいろいろな形で出てくる。浅瀬で大きな体を横にしてあえいでいたり、見たこともない色とりどりの魚の群れが気持ちよさそうに泳いでいたり。夢分析でもしてもらったら面白いだろう。「魚」に関連して思い出すことがある。私にとって大切な意味があるのかもしれない。

小一の頃だろう。学校の帰り、区画整備もされていない田圃道を歩いていた。気付くと、ようやく根付いた緑色の稲株の周りの水が真っ白になっていた。次の田も、また次の田も真っ白。ドジョウや蛙などの死体だった。皆、白い腹を上にして、固くなって水に浮いていた。何か大変なことが起こったのだ。一目散に家を目指した。新しい農薬を散布しただけだと知らされた。「それだけのこと」と言われても、何か取り返しの付かないことが起こってしまったのではないか、と心のざわめきは収まらなかった。

それからというもの、水中生物は激減した。いつの間にか数が減り、気付くともう何年も見かけない、という生き物がたくさんいた。私は魚はもちろん、水の中の生き物が大好きだった。水槽の生物はどれだけ見ていても見飽きることがない。ヨコノミは指先に乗る位の丸い蝦の一種。親が子供を腹に抱えていることもある。泳ぐ時、体を横にしてツイツイ泳ぐ。郵便持ちは細長い虫で、頭の後ろに毛のようなものが生えていた。泳ぐとそれがゆらゆら揺れた。ゲンゴロウと水澄ましは似ているけれどゲンゴロウがずっと大きかった。タナゴは横腹にきれいな虹色が浮かんでいて、川で捕まえたときは宝物扱いだった。ドジョウはくねくねと水面に上っては、また水に潜っていく。鯰の子供のようなグズというさえない魚もいた。愛嬌のある顔が好きだった。黒いナツメも不思議な魚だった。そして、少しこわいようなタガメ。

毎年、稲刈りが終わった頃、堤狩りがあったことも思い出す。水を落とした堤で魚を掬い取る。蛭野のどの家にも大きな網があった。大人の関心は鯉だったように思う。鯉は取っても自分のものにできず、いったん全て集め、くじ引きで分配していた。だから子供はフナなどの鯉以外の魚を狙った。普段は見かけない魚がたくさんいた。それを腰のびくに入れ、冷たい泥水に首まで浸かってあさるのだ。堤狩りの後は、しょうゆ味の雑魚煮が何日もおかずにでた。亀が取れることもあったが、それは大変な賞品だった。甲羅に穴をあけ、池の周りにつないでおく。「去年はあの辺で亀が取れた」などということが子供の話題になった。私にとって蛭野は生き物の宝庫だった。そんな話を家内にしていたら、痛いほどの思いが込み上げてきた。

最近、奇形蛙の研究をしている学者に会った。足が3本、5本の蛙、さらに手足がない蛙も世界中で見つかっているという。その数はどんどん増えているらしい。はかないものから順に環境汚染の影響を受けていく。人への悪影響も出始めているというのになかなか動けないでいる。

また、調査捕鯨などという蛮行を続ける国もある。その調査は学問的に稚拙で、国際的な学術誌に採用されたことがない。科学的根拠のないデータを示し、絶滅寸前の野生動物を捕り続け、世界の嫌われ者になっている。メディアも真相を隠している。海外のテレビでは、その国の漁船が血を流しつつ逃れようとする鯨の親子を容赦なく殺し、切り裂く場面を何度も流しているのに。地球はあえいでいる。」

2017年6月12日

鯨の巨大便(4):長谷川祐子「『なぜ』から始める現代アート」NHK



東京現代美術館のチーフ・キューレター、多摩美術大学特任教授、長谷川祐子「『なぜ』から始める現代アート」(NHK出版)に以下のような一節があります。

「西洋の動物保護団体の人たちは日本人に対して、『なぜ、最大の哺乳類で、人間に近い鯨を殺して食べるのか』と怒っている。『そんなことを言うなら、牛も哺乳類ではないか、なぜ鯨だけ特権化するんだ』、と日本人である私たちは思うわけですが、彼らにとっては違う。」

長谷川は日本人の一般論として、なぜ鯨だけ特権化するんだ、と書いているわけです。彼女自身が鯨についてどう考えているかは明確ではありません。一般の日本人よりなのだろう、とは推察できますが。

ただ、明確なのは、彼女が捕鯨についてきちんと考えていないということです。
西洋の人たちの怒りを理解しようとしていないということです。

長谷川は現代芸術に関わる方です。現代芸術とは現代の文化、社会に関わる芸術のこと。後に述べるように、日本の捕鯨は現代社会、国際関係を考える上で、とても象徴的な事項です。その重要な事項に対して、深く考察していない。浅薄な認識で、西洋人の捕鯨にまつわる芸術作品を解釈しても、おそらく意味のある洞察は得られないでしょう。彼女の影響ある立場を考えれば、それは怠慢かもしれません。

長谷川のいう一般的な(おそらく長谷川も同調している)日本人の見解が、なぜ間違っているかは、先に書いた私のエッセーで明確になると思いますので、説明は省略します。現代の国際社会の文脈で、鯨と牛が同じだとは言えない、と了解してもらえるといいのですが。
鯨の巨大便(3):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_10.html

ここでは西洋の人たちの怒りについて考えてみます。
You Tube で、Japanese Whalingを検索し、いくつか見て下さい。
その下に様々なコメントがあります。
https://www.youtube.com/watch?v=VqFoHhV2ARI
https://www.youtube.com/watch?v=n0UURL8AUdY

とても引用する気になりませんが、「死ね!」「アホ!」といったレベルの罵詈雑言の投げ合いです。

おそらく、日本が捕鯨を続けるためには、捕獲数がエコシステムに影響しない程度の少数のものであるということ(存続可能なレベルであること)を科学的に証明すること、さらに、殺し方を、家畜を殺す時のような痛みを伴わないやり方に変えることなどが、最低限必要でしょう。

しかし、仮にそれができたとして、納得してもらえるでしょうか?

私はおそらく無理だと思います。
捕鯨論争において、日本には勝ち目がないと思います。

なぜか。

捕鯨というのものが、自然破壊のイメージそのものだからです。
環境破壊の象徴だからです。

捕鯨には、何頭鯨を殺したとか、科学的に数値化できる部分があります。
しかし、同時に、人間が、最新技術を使って、無力な美しい野生動物を虐殺しているという情緒的なイメージがどうしても払拭できません。

これは、いくら説得に努めても、納得してもらえるものではありません。
ちょうど、宗教のようなものです。
篤信の方を棄教させようとするようなもの。力づくでも無理でしょう。

1960年代、環境問題が注目を浴びるようになり、
1980年代以降、地球温暖化、絶滅種の急増、環境破壊の規模の大きさに世界中が目覚めてしまっています。パラダイム・シフトが起こったのです。

科学技術で、自然を開拓し(環境を破壊し)、資源を採取し、人類の富を増やす、
という近代の人間中心主義モデルは、もう古いものになっています。
古いだけでなく、憎むべき過去の行為という見方が広まっています。
おそらく、その憎しみの中には、自分たちの過去に対する後悔、羞恥、反省も含まれています。後悔があるがゆえに、他者の自然破壊に対する憎しみは、一層増します(植民地政策に対しても、同様の態度が見られるように思います)。

現在の主流はエコ中心主義と言っていいと思いますが、
そこには、人間中心主義の自然破壊への憎悪が存分に含まれています。

そして、人間中心主義の自然破壊の最も分かりやすい、典型的なイメージが日本の捕鯨なのです。象徴なのです。*1

ですから、捕鯨論争で西洋の人たちに対峙するのは、宗教戦争を戦うようなものなのです。出口はなく、ただ、憎しみの連鎖という悲惨な結果しか残しません。そこに気づいているから日本以外のどの国も捕鯨になど手を出さないのです。韓国が始めようとしたが、国際的な非難を浴び、即、取りやめたと前回書きましたね。

捕鯨にこだわって、わずかな利益(一握りの売国奴、資本家が儲かるだけ)のために、国際的な信用を失うのはあまりに馬鹿げたことです。

鯨など食べたことがないという人も多いと思いますが、捕鯨などどうでもいい、と無関心ではいないで下さい。日本国内では偏向報道のため、気づかないでしょうが、捕鯨は重要な国際問題です。皆が「捕鯨は国辱だ」「時代遅れだ」「クールじゃない」と断言したらいいのです。そんな声は、国際関係に優れた実績を作っている現政権にならば届くのではないか、と期待しているのですが。

日本の本当の力は、人間中心主義ではなく、エコ中心主義の新しい世の中でこそ開花するものだと思います。エコ中心主義で世界をリードできるだけの力、伝統、技術、人間力を持った国です。そう信じているのは私だけではないと思います。

鯨の巨大便(1):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_8.html
鯨の巨大便(2):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_9.html
鯨の巨大便(3):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_10.html

*1、もう一つの典型的イメージは象の密漁でしょう。象は絶滅に瀕していますが、密漁が止まりません。この事態の主な原因のひとつが、日本人の象牙の印鑑等への執着だと厳しい批判がなされています。
http://news.nationalgeographic.com/2015/12/151210-Japan-ivory-trade-african-elephants/
http://www.japantimes.co.jp/news/2017/02/28/national/crime-legal/japan-tighten-control-domestic-ivory-trade/#.WUCFnxOGO_o


2017年6月10日

鯨の巨大便(3):書評・柳澤桂子「すべてのいのちが愛おしい」(集英社)


以下は、生命科学者から孫へのメッセージと題された、柳澤桂子「すべての命が愛おしい」(集英社)の一節。著者はお茶の水女子大学名誉博士とあります。

「里菜ちゃんへ
鯨を食べたことがありますか?おばあちゃんの子供のころ、(略)よく食べました。(略)その後、環境保護団体から「鯨をとってはいけない」という圧力がかかりました。
鯨は賢くて優しい動物だからであり、野生動物なので絶滅しかねないからだというのです。
では、牛や豚は賢くないのでしょうか。環境保護団体の人は、お肉を食べないようにしているのでしょうか。(略)
確かに鯨捕りは残酷です。でも鯨をとることで生計を立てている人もいました。そのひとたちは鯨捕りが禁止されると生活に困ることになるのです。今では鯨の肉を見かけることはほとんどありません。
生き物を食べなければ、私たちは生きられません。どんな動物だって、死にたくはないでしょう。食事をいただけることに感謝して、たいせつにいただきましょう。」

この本は不思議な本です。「すべての命が愛おしい」とあるように、全編、命のたいせつさが繰り返し語られます。ところが、相手が鯨になると、途端にそんな思いやりが吹き飛んでしまいます。「鯨以外のすべての命が愛おしい」としたほうがいいでしょう。

これはなんなのでしょう?
日本で捕鯨に反対すると立場が悪くなるというような空気があるのでしょうか?
私の知る限り、捕鯨推進派には、攻撃的で、感情的、相手の意見を理解しよう、議論しようという基本的な態度ができていない方が多いようには思いますが。こんな人と関わるくらいなら、黙っていようと思ってしまうのでしょうか?

おそらく、上に引用した一節は、大方の日本人に共感を持って読んでもらえる内容でしょう。一見、特に何の問題も無いようです。
しかし、よく見ると、様々な問題点を含んでいます。

環境保護団体の立場を、「牛や豚は賢くないのでしょうか」と批判しています。
しかし、「野生動物なので絶滅しかねないから」という部分には批判の言葉がありません。批判のしようが無いから逃げているのです。卑劣さが現れています。

「環境保護団体の人は、お肉を食べないようにしているのでしょうか。」揚げ足取りのような卑怯な論法。相手は、絶滅に瀕する野生動物は食べないと言っているだけなのです。それをあえて誤解したふりをして、「それじゃあ、あんたは肉を食べないの?何も殺さないの?」と、批判しているのです。相手を攻撃したいだけなのです。知的な会話ができる、誠意ある相手ではないと分かります。

「鯨をとることで生計を立てている人」とありますが、捕鯨を行っているのは大企業です。江戸時代のような頼りない船で鯨を獲りに行っているわけではありません。腐りきった悪徳資本家がやっていることなのです。「生計を立てる」とか「生活に困る」という表現で、捕鯨をしているのが貧しい人たちであるかのようなイメージ操作をしています。

もちろん実際に捕鯨船で働いている人たちは、生計を立てるために従事しているのでしょう。しかし、捕鯨の仕事は体力的にも精神的にも極めて重労働だろうと思います。そうした体力、精神力があれば、他の領域でも十分活躍できるはずです。

「生き物を食べなければ、私たちは生きられません」だから、鯨を食べてもいい、と捕鯨を正当化しています。これも間違いです。短絡的すぎます。
絶滅に瀕する野生動物を食べなくても、人間は生きていけます。
存続可能な方法で、蛋白源をとりつつ生きていくのがまっとうなのです。
時代が違うのです。

さらに私の言う日本人特有の◯✕思考です。
国際的な視点が全く欠けています。国内でだけ、個人の頭の中でだけ通用する理屈です。
科学者として当然の、地球環境の破壊に歯止めが効かなくなっているという現状に対する真摯な洞察がありません。
読み手をマインドコントロールするのが目的で書かれているようです。
外国の人には、詭弁を使う人とみなされ、全く相手にされないでしょう。
それは無知か、さもなくば誠意が無い人間の特徴とされます。
このような本が出版されるのは間違っていると思います。

暗愚な捕鯨推進派の典型的な意見ですから(知的な推進派もあるのでしょうが)、
以前私が遠慮がちに書いた批判を再録します。
反論のひとつにはなっているでしょう。

提言:捕鯨論争における日本人の思考

「鯨を殺すなだと?羊を殺しているくせに。命を奪っているのだから同じことじゃないか」こんな議論をよく聞きます。その度、これではプロレスの場外乱闘だなと思います。リングの中で戦っていたのが、突然,一方が場外に出て、折りたたみの椅子を振り回し、相手をはり倒す。「どうだ、返答のしようがないではないか。こちらの勝ちだ」そんなイメージが浮かぶのです。

 文化の押しつけだの、国際法がどうのこうの。門外漢の私には判断のしようがない事柄ですが、皮肉や罵倒も含め多くの議論が場外乱闘状態。漁業関係者(大企業ですが)が可愛そうだ,などという感情論も横行。しかし、論点を整理して、同じリングに立って、つまり共通の認識を確認しつつ、議論を進めていけば、争点の核心も明確になり、それほど感情的になる問題でもないと思うのです。

 第一の共通認識:捕鯨、賛成反対双方ともまずは、人間の在り方の基本を確認しましょう。人間は他の生命を奪って生存するしか無い生き物です。殺傷が罪だというなら人間は罪な存在です。100人のうち99人くらいまではこの点で同意できるはずです。もちろん1人くらいはあらゆる殺傷は罪だ、自分は殺傷せずに生きるという方があるかもしれませんが。日本人が食事の前に手を合わせ「いただきます」と言うのも、命をいただいているという罪の意識と感謝の表れかもしれません。自然とのつながりを確認する精神的な行為と言えるでしょう。

 次に考えなければいけないのは、その殺傷の罪にも重いものと、軽いものがあるという点です。これは思考しかできない人には受け入れがたい点かもしれません。殺傷即ち罪、罪即ちと考えがちです。冒頭の「羊を殺しているくせに」という議論が思考だということに気付いて下さい。日本で教育を受けると思考になりやすいのではないでしょうか。しかし、これは断じて正さなければいけません。外国人ときちんと議論できないだけでなく、実は簡単に権力やカリスマ的な存在にマインドコントロールされてしまうからです。

 さて、野生動物を食べることと家畜を食べること。どちらも罪なことでしょうが、どちらがより罪が重いでしょうか?第一の共通認識から外れずに、場外に出ずに考えて下さい。同じということはなく、やはり区別が必要ではないでしょうか。どこかで線を引く必要があるでしょう。その線引きに必要なのが第二の共通認識です。

 第二の共通認識:現在、人間の力は巨大です。数百年前とは比較になりません。人間のために絶滅した種は数知れず、自然環境の破壊には歯止めが利きません。過去はこうであったとか、伝統的にどうであったとかいう議論も置いておきましょう。問題は今現在です。地球の存続可能性を考えることはこの時代に生きる者の義務です。この認識を踏まえると、野生動物より家畜を食べる方が罪としては軽いのではないか、ということになるでしょう。地球の存続可能性という尺度で、ここまではやむを得ない罪、ここからは犯してはいけない罪、と判断していく知恵を持ち、それを良識として共有していくことが必要なのです。

 さて、ようやく捕鯨問題です。調査捕鯨は欺瞞だとか、暴力的な抗議運動、マスコミの偏向報道、政治利用などなど様々な問題がありますが、上記の共通認識を踏まえれば、真摯に問題の核心に迫っていくことができるように思います。思考だけは禁物です。「~しかない」とか、「~は傲慢だ」というような断定的で歯切れの良い議論は一般の人々を誘導するには効果的ですが、思考であることが多いのです。核心は白黒がつけにくいグレーの部分での議論になり、それは忍耐を要するものになることでしょう。皮肉な態度や感情論、揚げ足取りのような議論もやめましょう。卑怯な場外乱闘はやめていただきたい。

 以上が私の提言の要点です。独特の意見というのではなく、常識的な意見だと思いますが、政府の正式見解などもこうした視点で点検してみるといいでしょう。オーストラリアで生活していると、酒の席でまで鯨論争に引き込まれ、不快な意見を聞くことになるので、我慢できず書いてしまいました。個人的な意見もありますが、ここでは控えます。以下は若干の補足です。

 今現在でも野生動物を食べることが即ちではありません。鯨を食べること即ちではないでしょう。ただ、存続可能なのか、という点が問題の核心なのです。存続可能だというのであれば、それをどう科学的に証明するか。どうやら現在の人間の知恵では解答は無いようです。鯨の中には絶滅に瀕していない種があると日本の科学者が調査結果を出しても、方法論が非科学的と相手にされないということもあるようです。これも腹の立つ、感情的になりかねない点でしょう。鯨の年齢を測るには耳あかを調べる「しかない」、そのためには鯨を多数殺す「しかない」という議論も聞いたことがあります。ところが日本以外の科学者はそんなことはないと反論します。そこで腹を立てのでなく、忍耐強く、共通の方法論的認識に基づいてグレーの部分での議論を重ねていくしかないでしょう。

 国益にならないのだから いっそのこと捕鯨などやめたらどうだ、という意見も出てくるでしょう。案外,日本はこんな路線をとるかもしれません。外国との軋轢が生じ、国辱だなどという運動が国内に起こって、あっさり方針を変えるたということはいくつか歴史に例がありますから。

 もちろん捕鯨論争で最重要なのは日本政府や日本のマスコミの対応です。日本は比較的世論が政治に反映しにくい部分がありますし(もちろんこれも比較的ということ。民意を無視し、企業の意向だけを優先するひどい独裁国家が存在することは承知していますが)、政府やマスコミの見解を鵜呑みにする国民も少なくない。そうした現状にも拘らず、この問題で、新しい、世界に通用する対応ができないものでしょうか。日本の叡智を示すことができないものでしょうか。原発事故への対応を見るとあまり期待はできそうにありませんが。

鯨の巨大便(1)http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_8.html
鯨の巨大便(2)http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_9.html
鯨の巨大便(4)http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/nhk.html

2017年6月9日

鯨の巨大便(2)


鯨の巨大便(1)で、捕鯨は国益を損なうと書きました。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_8.html
それは政治的な見解です。

より重要なのは、科学的な見解。
捕鯨はエコロジーを破壊します。
地球の存続可能性こそ緊急の問題です。

しかし、政治的な問題として話したほうが、日本は反捕鯨へ動くのではないか、
そこで政治的な問題として書いているのです。
そこをもう少し詳しく説明します。


「調査捕鯨などという蛮行を続ける国もある。その調査は学問的に稚拙で、国際的な学術誌に採用されたことがない。科学的根拠のないデータを示し、絶滅寸前の野生動物を捕り続け、世界の嫌われ者になっている。メディアも真相を隠している。海外のテレビでは、その国の漁船が血を流しつつ逃れようとする鯨の親子を容赦なく殺し、切り裂く場面を何度も流しているのに。地球はあえいでいる」

以前、私がある文集に寄稿した文章の一部。そのテレビのナレーションでは、次のような説明がつきます。

日本の捕鯨船が鯨の親子を見つける。
日本の漁師はまず、子供を狙う。動きが鈍いから。
子供の体に銛を次々に打ち込む。
赤い血が吹き出す。子供は怯え、悶え苦しむ。
母親は泣き叫ぶが、血みどろの自分の子供のそばを離れない。
それこそ残虐で卑劣な日本人漁師の思う壺。
普段ならすぐにでも逃げ出す母親の目玉をめがけて銛を打ち込む。
目玉が破裂する。
さらに銛を打ち込む。打ち込む。
鯨の嗚咽がいつまでも続く。
血みどろの海面からやがて二つの死体が捕鯨船に引き上げられていく。

https://youtu.be/mFjVbLPCwQ4
https://youtu.be/Dw90fQJl6xI
https://youtu.be/D8e1kb4D4nY

こういう画像が世界中で放映されているのです。
日本への反感、憎しみが生まれるのは当然でしょう。

確かに日本人は面白いアニメを作った、いい車を作った、
しかし、所詮、鯨の親子を容赦なく殺せるレベルの低い野蛮な民族だ。

日本が、近隣の国の核の脅威にさらされている。
領土侵犯され、侵略の危機に瀕している。

そこで、国際社会が日本を助けようと思うか?
日本のために立ち上がろう、
血を流してでも。
そう諸外国が思うでしょうか?

日本は現状では自国の安全、防衛さえ外国に頼らざるをえない国です。

「日本が侵略されても、知ったことか。
鯨にとっては
地球の環境保全のためには
日本などなくなったほうがいいかもしれない」
そういう人は出てきます。

鯨はただの哺乳類の一つではないのです。
極めて政治的な象徴的な存在です。

それはおかしい。理性的ではない。
他の動物とどこが違うのか、と怒ってみても、
諸外国の人々の認識を変えることはできません。

捕鯨が国益を損なうとはそういうことです。

たかが、「鯨ごときで!」と思われるかもしれません。
しかし、日本の安倍首相が豪州の首相に会った時、まず、捕鯨の話が出るのです。
鯨の問題、なんとかしてくれんかい?
わかったわかった、なんていう話があるんでしょう。
おそらく日本のメディアには報道されないのでしょうが。

それから、もっと実際的な話に移るのです。つまり、
経済的な相互依存関係を維持しましょうね(日本の経済は諸外国との取引なしに成立しません)とか、
有事の際は、理解と協力を頼むよ(日本の近隣には、けしからぬ動きをする軍事国家があります。しかし、日本は自分で自国を防衛できないのですから)とか。
そういう話になるのだろうと思います。

捕鯨の問題は、それくらい重要なのです。
捕鯨をなんとかすると言っておきながら、何もしないじゃないか、ということになれば、
日本は信頼を失うことになり、国益の損失にまで至るだろうと思います。

また、捕鯨をやるぞ!と宣言したものの、予想外の国際的な批判を浴びて、即撤回した国がありますね。数年前ですが、覚えていますか?韓国です。
捕鯨を行うことが、国際関係を維持していく上で、極めて不利だと即、判断したのです。
世界を巻き込んであれこれ工作して、自国の利益を追求するのが得意な国は、国際的な政治感覚が優れています。賢いのです。

それに対して、日本ときたら。

一部の悪徳資本家の世論操作にのせられて、学者は買収され、政府も一緒になって、誰にも理解されない詭弁を弄し、捕鯨を続ける浅はかさ。傲慢。醜態。

世界で日本だけなのです。そんなことをしているのは。

次は別の観点から捕鯨の問題を考えてみます。

2017年6月8日

鯨の巨大便(1)


日本の捕鯨がまた始まると報じられました。
世界がどのようにそれを見ているか、
日本ではほとんど報じられないようです。

捕鯨論争については、以前にもこのブログで書いたことがあります。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/07/blog-post_8.html

私の知識が十分でないことを承知しつつも、
日本には、この論争での勝ち目はない、と思っています。

捕鯨反対が国是となっているオーストラリアでも捕鯨推進派はあります。
日本人ですが。
恥ずかしいほど貧弱な議論を繰り広げていた人があります。

捕鯨推進派の主な意見は上述のブログに述べた通り。
どの主張も、国際社会を納得させるのに十分なものではありません。
調査だ、文化だ、環境保全だ、など、
いずれも妥当性がありません。
論拠が弱すぎて、詭弁にしか聞こえません。

他にも、鯨を殺すことで、鯨が食用にしている小魚が増える。
よって人間の食資源が確保されるのだ、という議論もよく聞きます。
確かに、もっともらしく聞こえます。

これは日本政府も用いた論法だったのでしょうか?
「日本政府のバカな見解」と、笑っている学者がありました。
なぜバカなのか?

鯨を殺すことで、小魚が増えたか?
実際には減ったのです。

どういうことか?

鯨が殺されると、鯨の糞が減る。
鯨の巨大便は、まるでキノコ雲のごとく海中に噴射されるらしいのです。
あっぱれな光景だろうと想像します。

その糞はプランクトンなどの微生物のエサになるのです。
鯨が減ることで、糞が減る、すると、プランクトンが減る、
すると、お分かりですね。
プランクトンをエサにしている小魚が減るのです。

生態系はこのように循環しています。
微妙なバランスを保ちながら。

鯨が減れば小魚が増えるのだ、などという議論を振り回すのは、
自らの低脳をひけらかしているようなもの。

それだけで信憑性は地に落ちます。
議論できる、まっとうな相手ではない、と。

野生動物を殺すというのは蛮行、
これが世界の常識。
正当性はありません。
しかも、絶滅危惧種を殺すことのダメージは大きすぎます。

捕鯨もいずれは衰退します。
存続可能な産業ではありません。
政府は業界関係者を支援をしつつも、
他の業種への移行をサポートするべきです。

もちろん、捕鯨をやっているのは近代的な設備を備えた捕鯨船。大企業です。
日本政府への圧力、マスコミ操作、世論操作もお手の物の大金持ちの悪徳業者ですから、
そこまで配慮が必要かは分かりませんが。

技術が発達したことで廃れた産業はたくさんありますね。
蒸気機関車、現像フィルムとか、
捕鯨も似たようなもの。
(新技術の登場というより、環境の変化によるのでしょうが)

環境問題が人類共通の最重要課題となっている今日、
捕鯨を続けることの不利益(国家としての不利益、資本家は儲かったとしても)。
蒙昧。恥。
世界からバカもの扱いされ、
憎悪され続ける日本はあまりに情けない。

「日本は私の大好きな国だけれど、日本の捕鯨だけは憎む」
などというコメントもソシャル・メディアでは多いのです。

しかしながら、国内では日本の捕鯨を批判する意見がなかなか報じられない。
マスコミや政府に無批判、
無関心な人が多い現状。

世界のほぼすべての国が良心から(さらに政治的な配慮から)
手を出さない捕鯨を
金のために唯一続ける日本の醜態。

国際社会の批判を無視して、隣国を侵略、虐殺し、領土を拡大し、
自らの領海外に軍事基地を作ってしまうヤクザな軍国主義国家がある。

それと同レベルで語られる日本の捕鯨。

一部のヤクザな資本家の懐を潤すために、国が動けない。
それは、一部の軍需産業を潤すために
戦争への動きが止められなかった
戦前の日本の状況さえ連想させます。

損なう国益が大き過ぎます。

鯨の巨大便(2):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_9.html
鯨の巨大便(3):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/blog-post_10.html
鯨の巨大便(4):http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/06/nhk.html

2017年6月5日

21世紀的いけ花考 59回



 ここまで「日本文化=禅文化論」に対する素朴な疑問を述べてきました。今回はその流れで少し脱線します。茶道について気になる点があるのです。

「侘茶は、禅における宗教改革であった」。京都学派の哲学者、久松真一の言葉です(「茶道の哲学」)。禅が、僧のものから市民のものになったのが侘茶だということでしょう。つまり文化変容のこと。とすると疑問が生じてきます。

 わかり易い例で説明しましょう。メルボルン日本祭りというのがあります。この祭りは日本の祭りそのままではないはずです。日本の祭りと、豪州のイベントの慣習とを噛み合わせて開催されているはず。この辺は主催者が苦労される部分でしょう。ここには文化変容の絶対法則があります。つまり、A: 日本の祭り(本来の文化)+B: 豪州のイベント(別の文化)=C: メルボルン日本祭り(新文化)という公式。Bなくして Cは成立しないのです。あるいは、AとBの立場は逆かもしれません。つまり、豪州のイベントというのが本来の文化で、そこに日本の祭りという別の文化を注入して、メルボルン日本祭りが成立しているという見方もあっていいでしょう。

 さて、久松の宗教改革論ですが、A: 禅(本来の文化)+B:?=C: 侘茶(新文化)、となります。つまり、Bが不明なのです。まるで禅が独自に変革して新しく生まれ変わったようです。そういうことはありえないはずです。おそらく中国から伝わった茶会の風習などが他の文化(B)としてあったのでしょう。それは日本で闘茶などという博打的な遊びに発展していました。そこに、禅的な精神を注入して侘茶にした(C)ということでしょうか。

 私の疑問は、人々の博打遊びを見て、これを宗教儀礼のような、魂の触れ合う精神的な場にしようという発想になるか、ということ。現代なら、パチンコや麻雀に精神性を求めようとするでしょうか?

 これは私の空想ですが、茶会の影響も否定しませんが、もしかすると侘茶は飲食に関する神事がモデルで、そこに流れる精神を禅的な表現にしたのでは?禅+神事=侘茶という仮説。この仮説の弱点は、侘茶の提唱者とされる村田珠光と神道の繋がりが見えてこないこと。彼は禅僧であったようですが。ですから、残念ながら私の仮説は空想の域を出ないですね。しかし、神道重視で、日本文化を見直すのは面白い作業です。

 今月はクリニックのレセプションに活けた花。水がやりにくいですが、と言うと「うちの医師に注射器でやってもらいましょう」とのこと。

2017年6月4日

2017年5月31日

書評「超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦」(角川書店) 



前回のポストでも紹介しましたが、蓑先生のファンの一人として、「超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦」は、多くの方にぜひ読んでいただきたい書物です。

この本は、
芸術、美術館のあり方に関心のある方はもちろん、
地域振興の方法を考えておられる方々、
教育、人生に関心をお持ちの方々にもお勧めしたいです。
さらに、いい商品を持っていながら、売れないという
マーケティングの悩みをお持ちの事業主にも参考になるでしょう。

アマゾンに書評を載せようとしたのですが、できませんでした。
私は日本語の書物をアマゾンから買ったことがないのです。
英書しか買ったことがないため、日本語版のアマゾンでは、私のコメントは受け付けてもらえないようです。

しかし、アマゾンの読者評をいくつか読んで
少々がっかりしました。

超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦

特に批判的なコメント。
匿名での他人の批判など、卑劣な人間のすることですから、基本的に無視すべきですが。
揚げ足取り、針小棒大な悪意に満ちた批判は読んでいて不愉快でした。
そこそこきちんとした文章ですから、おそらく評者は二流の大学で学んでいるはずです(決して一流ではない。本当の高学歴者はあそこまで傲慢にはなれません。自分より上があることを知っているものです)。しかし、視野の狭さ、手に負えない傲慢さからして、人間的には明らかに三流。女性からも嫌われる典型的な「上から目線の」男。レベルが低いのです。

ハーバードで博士号を取るということが、どういうことか、
わかっていないのです。
自分の情熱を実現するということが、どういうことか。
自分の限界を突破するということが、どういうことか。
他人の幸福のために自分の身を粉にするということが、どういうことか。
数字に現れた実績を作るということが、どういうことか。
そのために何度男泣きしなければいけないか。
大人のユーモアや冗談がどういうものか、
わかっていないのです。

燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
「愚かなるものは悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表すことのみを喜ぶ」
と言っても、彼らには理解できないでしょうが。

低レベルの書評に惑わされることなく、
「超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦」を手にしてみて下さい。
さらに、機会があれば講演会などを通じて蓑先生のお人柄に触れてみて下さい。
痛快な方がいらっしゃる、そんな発見は私たちに大きな勇気を与えてくれます。

2017年5月26日

金沢21世紀美術館特任館長蓑豊先生にお会いして


 今年4月、神戸で開催されたインターナショナル・アカデミック・フォーラムの学会で、初めて蓑豊先生のお話を伺いました。兵庫県立美術館長というご紹介でしたが、金沢21世紀美術館の特任館長。金沢21世紀美術館へは、2年前に初めて行ったのですが、とても印象的でした。

 金沢21世紀美術館ができて以来、石川県の学生の学力は向上の一途。昨年はついに日本一になったと。そのことが嬉しくてたまらないというご様子。先生の楽しいお話が終わって、私は興奮気味に尋ねたものです。「金沢21世紀美術館のコレクションは素晴らしいですね。作品をどういう基準で選ばれたのですか」と。ところが、先生は私の質問に直答はされませんでした。私は、キイワードはインターラクションではないかな?という予想をしていたのですが。双方向性と言いますか、一方通行ではない作品が多かったように思ったのです。

 しかし、先生の「超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦」(角川書店)には、明瞭な答えが記してありました。購入された作品のキイワードは、「子供」であるようなのです。子供の心を育む美術館を目指しておられるようです。

 先生のお話も、この本もいろいろなことを考えるきっかけになりました。
自分の作品でも、子供に語りかけることはできないだろうか?
自分の活動をもっとビジネス志向にできないか?
蓑先生の強さはどこから来るのだろう?
芯の強さはどうしたら育つのだろう?

 先生のご講演の翌日、早速、兵庫県立美術館へ出かけました。ありがたいことに館長室に通され、お話を伺うことができました。さらに、館長自ら館内をガイドして下さいました。ここまでしていただいたら誰でも先生のファンになってしまうでしょう。

 面白い、でも、後々までよくわからなかったことがあります。「この絵、7000万円もするんですよ。すごいでしょう?」「今度、日本経済新聞にインタビュー記事が載るんですよ。嬉しいですね」とか。これは自慢なんでしょうか?でも、普通の自慢のいやらしさが全くないのですね。

 あ、そうか、と後で気づきました。普通、自慢というのは自慢する人のレベルを少し下げますね。先生は、あまりにレベルが高いので、自慢することでわざとご自分のレベルを下げて、私と少し近いレベルに降りてきて下さったのか、と。そんなに私はすごい人間じゃないですよ、日本経済新聞に紹介されれば飛び上がって喜ぶ、その程度の人間ですよ、という具合に。

 ともかく、あれほど気持ち良く自慢を聞いたのは初めてのことでした。蓑先生との出会いはとてもありがたい経験でした。そして、「超・美術館革命:金沢21世紀美術館の挑戦」という素晴らしい本(先生の人生論であり、教育論)を読んだ後、思ったことは、蓑先生の印象を自分の中にしまっておくというのは違うのだな、少しでも多くの方に、伝えるべきなのだということ。

 私のブログでは、伝達できる人の数はたかが知れていますが、一人でも多くの方が蓑先生の手掛けられた美術館を訪れ、また先生の著作を手にされることを願っています。
 

2017年5月21日

一日一華:庭仕事


日曜日は終日、庭仕事。
大した作業をしたわけでない。
大きな庭でもない。
なのに一日かかってしまう、不思議です。
チューリップの球根を20個ほど植え、
水仙の球根も20個ほど植え、
冬によく育つレタスを10株ほど植え、
バラを整枝し、
モックジャスミンのヘッジを切りそろえ、
サンセベリアを移植し、
サルスベリのために土壌を酸性にする薬品を撒き、
ワーム・ファームやコンポストに芝生の切り屑を追加し、
それで、もう夕方です。

庭は時間を吸い取ってしまう、とさえ感じます。
楽しい時間ではあるのですが。

2017年5月11日

一日一華:忙しいわけではなく


インプロバイゼーション・アーティスト。
なんだかよくわかりません。
私の生け花の生徒のお兄さんが、そういう仕事をされているそうです。
豪州では唯一の存在であるようです。
おそらく世界的にもそのような仕事に携わっている人はあまりなかろうと思います。

面白いのはこの方の仕事観。
珍しい特技で、本人もそれで生活できるとは思っていなかったようですが、
次から次へと様々な依頼がやってくる。
それを夢中でこなしているうちに、キャリアを積み、
なんとかアーティストとして身を立てているということです。
大きな目標に向かってコツコツ努力するというのではないのです。
まず、パッションがある。
好きなことを夢中になってやっていると
こちらから仕事や目標を追いかけなくても、
仕事の方が次々にやってくる、というのです。

私も今週、3件くらい思いがけない仕事の依頼が続きました。
忙しいとは感じないのですが、大変だなあ、と話すと、
「それでいいのよ。私の兄と一緒よ」
と、その生徒が励ましてくれました。

今この時、このプロジェクトに全力投球。
すると、将来の展望はあまりなくとも、
ひとりでに道が開けていく、ということもあるのかもしれません。

2017年5月4日

21世紀的いけ花考 第58回







 今回も「日本文化=禅文化論」に対する素朴な疑問を続けてみます。


4、日本人の宗教心の根本は祖先崇拝。そこに関わるのが仏教。それに対し、婚礼など現世の通過儀礼に関わるのが神道。しかし、こうした役割分担は江戸時代に成立したものであるようです。本来、祖先崇拝は神道の担当だったのです。仏教は伝来した頃、飛鳥朝の頃でしょうか、ちょうど現在のキリスト教と同じような位置だったのでしょう。高尚で、ちょっとファショナブル。でも、祖先崇拝までは任せられない。つまり、歴史上、日本人の精神の根本には祖先崇拝や神道的なものがずっとあったのでしょう。ところがそれは、非常に分かりにくく、仏教の衣の中に容易に隠れてしまうという面があるようです。


5、達磨が中国に伝えた当時の禅と日本の現行の禅とでは大きな差があります。禅は日本化しています。神道化と言ってもいいかもしれません。そして、説明不十分ではありますが、もしかすると、日本人は、禅という衣を被った神道を信仰しているのかも?美意識、自然観、到達点などがあまりに似過ぎています。


 以上のようなことを踏まえると、素人なりに一つの仮説にたどり着きます。空想と思って下さい。実は、日本文化即ち禅文化というのは誤解ではないか?鈴木大拙、京都学派、さらに日本政府によって作られた一つの宣伝ではないか?とすると、そこに何か意図があったのではないか、と勘ぐりたくなりますね。


 おそらく、その意図とは神道の無視。まず、神道自体なかなか研究が難しい。禅関連の本ならゴマンとありますが、神道となる入門書さえ、怪しげなものが多い。さらにより重要なのは、神道が戦前の日本の政治に関わっていたということ。神国日本などというイデオロギーがまかり通るようでは、戦後の国際社会ではやっていけない。神道には蓋をしておこうという面があるのでは?反日主義者が多勢の日本のマスコミにとっても神道など目の敵かも。実は、戦前の政治に関連する神道思想など神道の変種でしかないのですが。


 しかし、いけ花を日本人の精神と関連させて考えようとすると、禅だけでは説明できないのです。神道に行き着きます。本来、日本文化は神道文化。この歴史的にも妥当な提案に共感者はあるでしょうか?とりあえず神道に関心を持つ人がもう少し増えてもいいように思います。

 この作品はあるクリニックにいけた商業花。道で拾った枝を整理して再利用しています。

 五月にはメルボルンで開催されるArts Learning Festivalに参加予定。ミケランジェロ・ピストレットなどの国際的芸術家も参加予定です。

2017年5月1日

一日一華:自作花器で



テーブルの足を逆につけて作った花器です。
もう少しいろいろ試してみようと思います。
こんな遊びを歓迎してくれるクライアントはありがたいです。
リシアンサスとフリージアを加えて商業花にしています。
本当は不要でしょうが。

日本滞在中、気をつけたことは最終日まで本屋に行かないように、ということ。
普段、私の読書はほとんどが英文。
そのせいもあるのでしょうが、日本語の本を見ると、手にしたい欲求が抑えがたく、何冊もの重い本を抱えて旅行することになるのです。
この注意はかなり守れまして、日本滞在の最終日に、東京の大きな本屋で手さげかごいっぱいの買い物をしてきました。

それでも、列車の待ち時間に売店を覗くと、最後の日を待ちきれず、ついつい何冊かは買ってしまうことになりました。その中で、特に買ってよかったと思った本は、サリンジャー著、村上春樹訳、「フラニーとズーイ」。そして島田裕巳著「人は死んだらどこに行くのか」。

前者は私の大好きな小説の新訳。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」も好きで、初めて英語で読んだ小説だったように思います。しかし、それ以上に自分が鷲掴みにされたような読後感のあったのが「フラニーとズーイ」。おそらく私にとっての小説トップ10の上位に必ず入る小説。それを村上が訳しているのですから、買うしかないでしょう。

後者も素晴らしい。アマゾンかどこかの読者コメント欄にも読後感を書こうかと思っていますが。
主要な宗教の特徴がとてもわかりやすい文章でまとめられています。
日本の祖先崇拝をめぐる神道と仏教の役割が少し気になっていたので、とても参考になりました。
日本人の無常観についての解説、現代的な洞察、ともにとても興味深い指摘でした。
ただ、ひとつ、もの足りないのは、無常観が悲観的なものとしてのみ捉えられているということ。
おそらく、日本の無常観は、肯定的なものに転換していく契機を含むものだと思います。
自然との融合、永遠の直観というような独特の宗教的、あるいは神道的回心(禅の悟りと同一視されていないか)へと。
そのあたりの問題は、私の生け花論にも関係してきます。
環境芸術、エコロジーの問題とも関連してきます。

2017年4月27日

造花でいけ花


造花で生け花を、というリクエスト。
プロですから、リクエストがあれば何でも応じます。
初めての試みです。

造花の質がいいのに感心しました。
しかし、これが生け花と言えるのかどうか。
生け花にはいろいろな定義がありますが。

例えば、花、水、器の3要素があって成り立つのが生け花だという定義からすれば、
水がないわけです。いけ花とは言えないでしょう。

死んでいる花(つまり切り花)を生かすから、いけ花というのだ、という定義(これは私の定義ですが。詳細は「21世紀的いけ花考」参照)からすると、そういう側面はありそうですね。造花という死んでいる花に、手を加えることで生命を宿らせているということが成立しているならば、まあ、いけ花かなとも言えそうです。

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