華道家 新保逍滄

2017年5月21日

一日一華:庭仕事


日曜日は終日、庭仕事。
大した作業をしたわけでない。
大きな庭でもない。
なのに一日かかってしまう、不思議です。
チューリップの球根を20個ほど植え、
水仙の球根も20個ほど植え、
冬によく育つレタスを10株ほど植え、
バラを整枝し、
モックジャスミンのヘッジを切りそろえ、
サンセベリアを移植し、
サルスベリのために土壌を酸性にする薬品を撒き、
ワーム・ファームやコンポストに芝生の切り屑を追加し、
それで、もう夕方です。

庭は時間を吸い取ってしまう、とさえ感じます。
楽しい時間ではあるのですが。

2017年5月11日

一日一華:忙しいわけではなく


インプロバイゼーション・アーティスト。
なんだかよくわかりません。
私の生け花の生徒のお兄さんが、そういう仕事をされているそうです。
豪州では唯一の存在であるようです。
おそらく世界的にもそのような仕事に携わっている人はあまりなかろうと思います。

面白いのはこの方の仕事観。
珍しい特技で、本人もそれで生活できるとは思っていなかったようですが、
次から次へと様々な依頼がやってくる。
それを夢中でこなしているうちに、キャリアを積み、
なんとかアーティストとして身を立てているということです。
大きな目標に向かってコツコツ努力するというのではないのです。
まず、パッションがある。
好きなことを夢中になってやっていると
こちらから仕事や目標を追いかけなくても、
仕事の方が次々にやってくる、というのです。

私も今週、3件くらい思いがけない仕事の依頼が続きました。
忙しいとは感じないのですが、大変だなあ、と話すと、
「それでいいのよ。私の兄と一緒よ」
と、その生徒が励ましてくれました。

今この時、このプロジェクトに全力投球。
すると、将来の展望はあまりなくとも、
ひとりでに道が開けていく、ということもあるのかもしれません。

2017年5月4日

21世紀的いけ花考 第58回







 今回も「日本文化=禅文化論」に対する素朴な疑問を続けてみます。


4、日本人の宗教心の根本は祖先崇拝。そこに関わるのが仏教。それに対し、婚礼など現世の通過儀礼に関わるのが神道。しかし、こうした役割分担は江戸時代に成立したものであるようです。本来、祖先崇拝は神道の担当だったのです。仏教は伝来した頃、飛鳥朝の頃でしょうか、ちょうど現在のキリスト教と同じような位置だったのでしょう。高尚で、ちょっとファショナブル。でも、祖先崇拝までは任せられない。つまり、歴史上、日本人の精神の根本には祖先崇拝や神道的なものがずっとあったのでしょう。ところがそれは、非常に分かりにくく、仏教の衣の中に容易に隠れてしまうという面があるようです。


5、達磨が中国に伝えた当時の禅と日本の現行の禅とでは大きな差があります。禅は日本化しています。神道化と言ってもいいかもしれません。そして、説明不十分ではありますが、もしかすると、日本人は、禅という衣を被った神道を信仰しているのかも?美意識、自然観、到達点などがあまりに似過ぎています。


 以上のようなことを踏まえると、素人なりに一つの仮説にたどり着きます。空想と思って下さい。実は、日本文化即ち禅文化というのは誤解ではないか?鈴木大拙、京都学派、さらに日本政府によって作られた一つの宣伝ではないか?とすると、そこに何か意図があったのではないか、と勘ぐりたくなりますね。


 おそらく、その意図とは神道の無視。まず、神道自体なかなか研究が難しい。禅関連の本ならゴマンとありますが、神道となる入門書さえ、怪しげなものが多い。さらにより重要なのは、神道が戦前の日本の政治に関わっていたということ。神国日本などというイデオロギーがまかり通るようでは、戦後の国際社会ではやっていけない。神道には蓋をしておこうという面があるのでは?反日主義者が多勢の日本のマスコミにとっても神道など目の敵かも。実は、戦前の政治に関連する神道思想など神道の変種でしかないのですが。


 しかし、いけ花を日本人の精神と関連させて考えようとすると、禅だけでは説明できないのです。神道に行き着きます。本来、日本文化は神道文化。この歴史的にも妥当な提案に共感者はあるでしょうか?とりあえず神道に関心を持つ人がもう少し増えてもいいように思います。

 この作品はあるクリニックにいけた商業花。道で拾った枝を整理して再利用しています。

 五月にはメルボルンで開催されるArts Learning Festivalに参加予定。ミケランジェロ・ピストレットなどの国際的芸術家も参加予定です。

2017年5月1日

一日一華:自作花器で



テーブルの足を逆につけて作った花器です。
もう少しいろいろ試してみようと思います。
こんな遊びを歓迎してくれるクライアントはありがたいです。
リシアンサスとフリージアを加えて商業花にしています。
本当は不要でしょうが。

日本滞在中、気をつけたことは最終日まで本屋に行かないように、ということ。
普段、私の読書はほとんどが英文。
そのせいもあるのでしょうが、日本語の本を見ると、手にしたい欲求が抑えがたく、何冊もの重い本を抱えて旅行することになるのです。
この注意はかなり守れまして、日本滞在の最終日に、東京の大きな本屋で手さげかごいっぱいの買い物をしてきました。

それでも、列車の待ち時間に売店を覗くと、最後の日を待ちきれず、ついつい何冊かは買ってしまうことになりました。その中で、特に買ってよかったと思った本は、サリンジャー著、村上春樹訳、「フラニーとズーイ」。そして島田裕巳著「人は死んだらどこに行くのか」。

前者は私の大好きな小説の新訳。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」も好きで、初めて英語で読んだ小説だったように思います。しかし、それ以上に自分が鷲掴みにされたような読後感のあったのが「フラニーとズーイ」。おそらく私にとっての小説トップ10の上位に必ず入る小説。それを村上が訳しているのですから、買うしかないでしょう。

後者も素晴らしい。アマゾンかどこかの読者コメント欄にも読後感を書こうかと思っていますが。
主要な宗教の特徴がとてもわかりやすい文章でまとめられています。
日本の祖先崇拝をめぐる神道と仏教の役割が少し気になっていたので、とても参考になりました。
日本人の無常観についての解説、現代的な洞察、ともにとても興味深い指摘でした。
ただ、ひとつ、もの足りないのは、無常観が悲観的なものとしてのみ捉えられているということ。
おそらく、日本の無常観は、肯定的なものに転換していく契機を含むものだと思います。
自然との融合、永遠の直観というような独特の宗教的、あるいは神道的回心(禅の悟りと同一視されていないか)へと。
そのあたりの問題は、私の生け花論にも関係してきます。
環境芸術、エコロジーの問題とも関連してきます。

2017年4月27日

造花でいけ花


造花で生け花を、というリクエスト。
プロですから、リクエストがあれば何でも応じます。
初めての試みです。

造花の質がいいのに感心しました。
しかし、これが生け花と言えるのかどうか。
生け花にはいろいろな定義がありますが。

例えば、花、水、器の3要素があって成り立つのが生け花だという定義からすれば、
水がないわけです。いけ花とは言えないでしょう。

死んでいる花(つまり切り花)を生かすから、いけ花というのだ、という定義(これは私の定義ですが。詳細は「21世紀的いけ花考」参照)からすると、そういう側面はありそうですね。造花という死んでいる花に、手を加えることで生命を宿らせているということが成立しているならば、まあ、いけ花かなとも言えそうです。

2017年4月25日

21世紀的いけ花考 第57回




 日本文化の本質は禅だとして説明するとウケがいいですね。分かり易いのです。禅にはすぐれた解説書、入門書がたくさんあります。「そうだと思ったんだよ」という反応になり易い。それで日本文化が分かった気になるわけです。しかし、少し考えると疑問点がたくさん出てきます。

1、禅宗は日本仏教の中で必ずしも大勢力ではない。日本の仏教で最大数の信徒を有するのはおそらく浄土真宗でしょう。日蓮宗系も大勢力です。なのになぜ禅が日本文化の代表のように言われるのか?

2、いけ花も禅と関連させて語られることが多いですね。鎌倉時代に成立した臨済、曹洞を主要なものとする禅が、室町期に成立し、今日にまで伝わる日本的な文化、茶、いけ花、能などに影響を与えた、と。日本中世に権力を握った武士階級で禅が流行ったということでしょう。

 ところが、日本国内におけるいけ花の最大流派は池坊。池坊は禅宗ではなく、天台宗。禅も天台仏教に含まれるという面はありますが。この辺りの問題は、私の独断的「いけ花における二極構造論」に関連していますが、それは別の機会に。ともかくいけ花は禅文化と言い切るのは証拠不十分では?

3、メルボルンの中国の禅寺を見て驚いたことがあります。中国の禅寺は実物を見たことがないので、間違っているかもしれないですが、私の第一印象は「美意識が違う」。清浄さ、侘び、簡素さといったいわゆる禅的なものが感じられないのです。もちろん個人的な印象でしかないですが。禅が日本的美意識に結びつくと言い切っていいものか?では、私の言う禅的な美意識とはどこにあるのか?日本の禅寺を除けば、最も顕著なのは神社です。日本の禅寺の清浄さは禅というより神道の影響ではないでしょうか?

 そろそろ字数制限ですので、今回はここら辺で。次回は日本文化(いけ花を含めて)は禅文化だという一般的な見解に対する素朴な疑問をもう少し積み重ねていきます。そして、一つの素人の仮説にたどり着こうと思います。 

 今月の作品はフィッツロイのちょっとさんへ生けたもの。とても人気だと連絡をいただきました。商業花ではシンプルなデザインを生かしたほうがいい場合が多いようです。

  4月には環境芸術といけ花について日本の大学や国際学会で話す予定です。また、29日にはサウス・メルボルンのMade in Japanでいけ花デモンストレーションを行う予定です。5月27日にはちょっとでワークショップも開催予定。ご都合がつきましたら是非お越し下さい。

2017年4月23日

一日一華:庭の草花で


水引とブーゲンビリア。
どちらも我が家の庭から採ったもの。

2年ぶりの日本滞在は、3週間ほどでした。
国際会議で、また日本のある私立大学で生け花について話してきました。
どちらも英語でしたが、日本の大学生には、少々、辛かったでしょうか。
初めての大学でしたから、不案内。
多数の方からお世話になりつつ、学内をうろうろしてしまいましたが、
学生も、図書館スタッフもとても親切で助かりました。

日本人学生には、英語だけでは難しいかなということで
時折、日本語で雑談を挟みました。
なぜ、私に大小、様々な仕事が次々来るのか?
それは私が締め切り期限を破ったことがないからなんです、と。
お金を頂いて、期限を決めたら、
私は逃げません。徹夜でもなんでもしてやり遂げます。
ところが、お金をいただいていながら、
ああだ、こうだと理由をつけて、仕事を未完で放り出したり、
逃げ出すアーティストも多いのだと言うと、

そんな無責任なこと、自分だってしないさ。
当たり前じゃないか。やり遂げるさ。
という顔の学生たち。
ほぼ全員がそうでした。

でも、数十人の学生のなかには、
おそらく何人かは逃げ出す人が出てくるのではないでしょうか。

芸術制作過程は絶壁と向き合うような時間が続くわけで、
なかなか苦しいのです。
本当に逃げたくます。

困難に向き合うか、逃げるか。
それは実はいろいろな場面で、私たちは日々経験しているのです。

例えば、私の講義に出席した学生にとっては、
私の英語の講義にかじりついて、ついてくるか、
もしかすると専攻に直接関係ないのかもしれませんが、
何か学べることがあるかもしれない、と頑張るか。
あるいは、「難しい」と居眠りしたり、おしゃべりしたり。
実際、ちらほらそんな学生が見受けられましたが。
そういう人は、つまり、逃げているわけです。
もちろん、あれやこれや理由や言い訳があるのは承知しています。
私の話がつまらんということも当然あるでしょう。
しかし、そういう人が芸術制作現場のような厳しい現実に直面した場合、やはり逃げ出すのではないでしょうか。私にはそう思えます。

もちろん、逃げたからといって、
それで人生が終わるわけではないでしょう。
人生は続きます。

ただ、逃げるか逃げないかという日々の決断の集積。
それは、おそらく全く別の場所へ私たちを導くことになるでしょう。

2017年3月21日

一日一華:レセプションに。英語プレゼン対策


間も無く国際学会で英語でプレゼンテーション。
何度か失敗してきました。
また、何度か他の人のうまくいっていない発表にも付き合わされてきました。

日本語なら楽ですね。
かなり気楽に、論理的に、深く、話せるように思います。

しかし、英語となると
私たちのようなノン・ネイティブの英語話者は
一工夫必要であるように思います。

もちろん、英語が達者な方には不要なアドバイスかもしれませんが。

まず、読む原稿を用意する。そう、読めばいいのです。
発表の内容がずっと深くなります。

そのことに気づいたのは、アメリカのある著名大学の教授の発表でした。
もちろんネイティブの方でしたが、原稿を読み続けながらも
きちんと聴衆とやりとりできるのです。

私のプレゼンは25分。私の対策はこうです。

英文約500語を読むと約4分。
それを1段落とします。

発表の内容を5段落に分けます。今回は環境芸術と生け花の関連について。

1、環境芸術の定義
2、環境芸術の歴史
3、環境芸術の分類
4、日本的美意識と環境美学
5、自作について

それぞれ500語。4分づつで20分。
最後の5分で質疑応答。

本当は上記4、5を中心とすべきですが、
私にとってはまだ新しいトピックなので前置きが長くなります。

まあ、500語くらいですと、書くのもさほど難しくない。
パワーポイントも用意しておけば、なんとかなるでしょう。

これで実際にうまくいったら
この方法を英語の発表で苦労されている方々、院生にもお勧めしたいです。

日本人の英語の発表はうまくいっていない方がとても多いです。
中にはパワーポイントも用意ぜず、原稿も用意せず
演壇に立つ方があります。
おまけにひどい英語ですから、自滅行為。
聴衆が次々席を立って、半分以下になったという発表を聞いたことがあります。
ところが、本人は全く意に介していない。
「なかなか好評であった」と。

学会、講演で目指すもの、根本の動機が違うのでしょう。

私の場合は、自分の研究が止まってしまわないように、
外から強制してくれる機会として、学会参加や論文発表を捉えています。
大学に所属していれば、そういう強制はあるのでしょうが、
離れてしまうと研究を持続させることはなかなか難しくなりますから。

2017年3月20日

2017年3月9日

21世紀的いけ花考 第56回


「生け花は精神修養だ」という説明は便利です。しかし、どうしてそう言えるの?と尋ねられると、とたんに説明は難しくなります。どうして生け花の修行という観察可能な行為が、精神的な向上という観察不可能な境地につながるのか。それをどう証明するか。難問です。瞑想や禅と同様、修行の時間を積み重ねることで、精神が変化していくのだ、ということにはなりそうですが。

 まず、思い当たるのは、文化人類学が通過儀礼をうまく説明している事例です。似たような研究方法である程度解明できるかもしれません。それに近い研究の一例として、現象学の方法を用いた社会心理学の研究があります。生け花の経験の長い方が、幸福感が大きいというようなことを実証しています(新保著、Ikebana in English: Bibliographycal Essay 参照)。

 また、生け花の修行を禅の修行にたとえることもできるでしょう。禅には「十牛図」というのがあって、禅を通じて悟りに至る過程を、段階的に十の図で解説しています。散歩していると、牛のしっぽがちらりと見えるのです。気になりますね。ちらりですから。牛とは悟りのたとえ。やがて、修行を重ねると、牛に触れ、ついには牛を捕まえることになります。悟りを摑むわけです。しかし、なんと、そこで終わりではないのです。さらに、その後、牛がとても不思議なことになります。このたとえ話は魅力的ですから、解説書がたくさんあります。私は上田閑照の「十牛図を歩む」が面白いと思います。

 ここで提出された悟りに至るモデルに合わせて、生け花の修行を段階的に説明することも可能でしょう。おそらく最も効果的に生け花と精神性の結び付きを説明できるはずです。かなり大変な作業でありますが。私自身、スケッチ程度のエッセーを試みたことがあります。

 しかし、私は、ここで妙な気持ちになります。確かに生け花を禅に結びつければ、話は分りやすい。おそらく最もきちんとした議論が成り立つアプローチでしょう。

 でも、どうして禅なのでしょう?日本文化即禅文化論は不都合な何かを隠していないでしょうか?禅は日本の多様な精神文化の一要素でしかありません。室町時代に日本的文化が花開いた。それに影響を与えたのが禅だ、というのが通説のようですが、この辺りを再考する必要があるように思います。


 今月紹介するのは結婚式のテーブルアレンジメント。ピンクとバーゲンディで統一ということでしたが、花材が揃わず苦労しました。しかし、クライアントの希望以上の仕上がりで、喜んでいただけました。
参照:
Shoso Shimbo, Ikebana in English: Bibliographical Essay, 
https://independent.academia.edu/ShosoShimbo  

2017年3月6日

一日一華:レセプションに


クリニックのレセプションに。

道路の端に捨ててあった百日紅を整理してみると
面白い枝があらわれましたので、使ってみました。

この写真は作品を横から見たもの。

最近、メルボルン市主催の水に関する学会に参加してきました。
とても有意義でした。

アボリジニの人たちと話したり、会議の後、飲んだりできたのも楽しかったです。
彼らの自然への畏敬。
自然観。
それは日本人が古来保持してきた神道的なものととてもよく似ているようです。


おそらく、神道というとてつもなく古い信仰が、
アボリジナルの宗教観と共通しているというのは
あり得ることでしょう。

キリスト教が圧巻する以前の古代世界には
自然に対する態度で、共通する部分が多かったのでしょう。












2017年2月28日

一日一華:現代芸術が分かった


メルボルンのチョットさんへ。

あ、そうか。
現代芸術が分かった、と感じたことがありました。
それは、あれこれ考えていた時のひらめき。
勘違いだった、という事もあるかもしれませんが。

現代芸術の本質というか、基本的な性格。
以下の違いを示された時、あ、そうか!と。
いけ花とは全く違うのですね。

Art as Commodity / Art as Service

前者が現代芸術の基本的なあり方。
後者はランドアートから環境芸術への系譜で
育ってきた考え方。

間も無く環境芸術について日本で話す予定です。


Shoso will present a paper on the history of Environmental Art at the International Academic Forum in Kobe, Japan in March 2017.  

2017年2月19日

2017年2月16日

一日一華:芸術と解釈と(2)


アストロメリア。
いろいろな使い方のできる楽しい花材です。

また、覚書です。
後でもっと考えられるよう、
思いついたことをメモしておきます。

先に、小説は無限の意味を生産する一つの生きた世界だ、というようなことをお話ししました。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post.html
そういう主張があるということです。
上質の小説とはそいうものだろう、と私は共感します。

では、現代芸術では、どうか?
おそらくそうはならないでしょう。
意味が無限に読み取れるというような作品はあったとしても、とても少ないか、
あるいは、現代「芸術」の範疇に入らないか、だと思います。

前者の例としては、デシャンの幾つかのほとんど意味不明な(と私には思える)作品などがあるでしょう。

後者の例はたくさんあります。現代芸術の定義、コンテクストを無視して作者が好きなように制作すれば、ほとんどが後者になることでしょう。

現代芸術では、むしろ意味を特定していく傾向があるようです。
つまり、無限に意味を生産するというより、
特定の意味が生産できれば良い、無意味であればお話にならない、ということ。

作品に意味を持たせること。
それも特定の意味。
作者が独自に求める、例えば「人生の意味」などではなく、
現代芸術で話題になっている、言わば流行している意味。
評者にわかる意味を伝達できるか否か。
そこが作品の命です。

私のような不明の者には、まるで流行の哲学というファッションを追いかけているだけのようにも見えてきます。追従ばかりじゃないか、と。

それでも、作者の立場では、ではどうしたら作品は意味を持つのか?
これが大事な問いになります。

一つのヒントはアプロプリエーション。
そのストラテジーを駆使する著名アーティストの一人が、Jeff Koons。
とてもわかりやすい例を示してくれています。

2017年2月9日

一日一華:生け花エッセイのご紹介


以前、雑誌に書いた生け花エッセイも公開します。
生け花と禅、生け花と神道について、あれこれ書いています。

2009 The Spiritual Power of Flowers: Ikebana and Shinto, Dare to Dream, Issue 5,    
         pp.26-29.

2007 The Ten Virtues of Ikebana: Ikebana and Zen, Living Now, September to   
         December.

雑誌に書いたエッセイ、学術誌に書いた論文も主なものをまとめてみました。
生け花に関する議論も少しづつですが、増えてきているようです。
私の書いたものに対するメッセージ、引用・転載依頼、問い合わせなども増えてきましたので、一層議論が盛んになることを願って。
少しでもお役に立てればありがたいことです。




2017年2月8日

一日一華:いけ花上達のコツ(1)


メルボルンの花菱レストランにて。

いけ花上達のコツについて思うところがありましたので
覚え書きとして。

いけ花上達のコツとか、秘訣などというのは、相当な実績ある先生でないと書いたり、話したりできない内容だと思います。

私のような修行中の者がおこがましい。
私の生け花指導歴はたかだか20年ほどでしょうか。
傲慢と思われても仕方ないでしょう。
それは承知の上で。

まず、この生徒は伸びないだろうな、そのうち諦めるだろうな、
という、少々がっかりな生徒の特徴から話しましょう。

私のクラスでは、まず、作品を仕上げてもらいます。
そこで、個別アドバイス。
外国人相手ですから、具体的でないと納得してくれません。
さらに、指示内容の理由まで説明しないといけません。
「弱い」「重い」「うるさい」
なんていう抽象的なアドバイスでは生徒は満足しません。
「いいですね」と言っても、それだけでは苦情が出ます。

外国人相手の先生は日本人だけを教えている先生より
おそらく苦労していると思います。
その分、教師として力がつくのではないかと思います。
(もちろん日本人を教える際の独特の苦労もあることでしょうが。)

「この作品の真ん中に太い線が走っているね。これは強すぎると思う。生け花というのは中心を強調しすぎると、流動性が無くなる。もっと不安定で、生き生きした感じを出した方が面白いと思うから、この線、やり直そうよ」
というような具合になります。

場合によっては、何度もやり直しを要求します。
そこで諦めてしまうか、食いついてくるか。
要はその違いです。
上達できるか否かの分岐点。

「もうこれ以上、だめです」なんていうのはまだいい方です。
自分の限界を感じているのです。大切なことです。

そうではなくて、もう投げ出してしまう感じ。
これが困るのです。
今日は疲れているし、
自分で満足しているからアドバイスなどもう不要。

あるいは、先生はこう言うが、自作の意図はこれこれである。
よって、今日はこれでいいのだ、とか。
自己の作品を正当化。
おそらく日本人にはあまり見受けられない態度だろうと思うのですが。

一言で言えば、真剣さに欠ける。
と、日本人の私には思えます。

もちろん、外国人生徒の全てがそうだということではないです。
ほとんどの生徒はとても熱心です。
ごく少数の生徒ですが、私の期待する真剣さに欠けるということ。
でも、いい人達です。
ありがたいなとよく思います。私のクラスの雰囲気はとてもいいです。
もしかするとこうしたちょっとイージーな人たちがいい雰囲気を作ってくれているのかもしれません。そう思うと大切な生徒ですね。

この点、日本人の生徒は違います。

(私にも数人日本人の生徒がようやくついてきてくれるようになりました。もっと若い頃から教えていましたが、以前は日本人には相手にされませんでした。実力も、風格もない。当然でしょう。)

日本人が生け花が上達するのは当然です。
真面目なのです。

外国人が不真面目というのではないですが、
学ぶということに対する態度の違い。
(繰り返しますが、すべての外国人がそうだというのではないのです。真剣さが必要な習い事だと、理解している人も多数います。)

この違いを理解し、忍耐を身につけ、
妥協したり、甘んじたりする傾向を乗り越えられないと、
いけ花の本当のところは分からないでしょう。
本当には上達しないでしょう。

とすると、生け花が人間修養ということの意味も、私なりに分かってきます。

生け花を学ぶことが人格を高めるということは、
よく言われますが、それは正確な表現ではないのかもしれないですね。
では、どう言い換えたらいいのか。
それはまた、次回としましょう。
そのうち続きを書きます。

Shoso Shimbo

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