華道家 新保逍滄

2017年10月16日

2017年10月7日

2017年10月4日

21世紀的いけ花考 第63回


 重森三玲の芸術としての生け花論では、草木など自己表現のための材料でしかない、ということでした。戦後大躍進した草月流、小原流などに影響を与えた、この主張がいかに日本の伝統に反するものであるかを理解するためには、生け花の起源にまで遡る必要があります。

 土橋寛が「遠く古代に源流する花見の習俗が、『立花』を経て『活け花』という生活文化を生み出すに至った」(「日本語に探る古代信仰」中公新書)と書いていますが、正論でしょう。

 花とは鼻なのです。花の語源については諸説ありますが、私は冗談ともとれるこの説が好きです。鼻は顔の先端。外界に接する部位。花もまた外界・異世界と接する存在です。この外界とは、つまり、聖なる世界。この類比の論理で、花と鼻がつながるのです。日本語は面白いですね。

 花見で春の訪れを祝うのですが、本来の趣意は花を見ることで生命力を強化すること(タマフリと言います)。また、山に咲いた花の枝を折り、田植えの際に田に挿すという風習もあったようです。ようやく訪れた春の生気・神性。それは花に宿っているわけですが、豊作を願って、それを田に移そうということでしょう。古来から伝わる日本における花の性格が少し分かってくるでしょう。難しい言葉では呪物崇拝とかマナイズムなどと言います。

 まず、花は生命力に満ちた存在とみなされていたということ。これは了解できるでしょう。しかし、生命力とか「いきいきした感じ」などという表現では、言葉足らずな感じがします。その力は神秘的で日常を超えた聖なるものでもあります。さらに、その力は伝染します。魂に流れ入り、魂を振り起こしてくれます。花とはそうした霊力・呪力を持つ存在。本来、花は神聖なるものという認識が立花にも、生け花にもあったのです。

 つまり、重森の主張は、精神修行としての生け花を否定しただけでなく、この伝統的な花に対する見方をも否定したのです。これをどう考えたらいいのか。世界史的な見地から再検討すべきです。大変なことになりそうですが、次回に続きます。

 今回の作品はレズリー・キホー・ギャラリーズでの松山智一展に活けた小品のひとつ。松山さんの色の祝祭に対し、色を渋く押さえ込んで対峙しました。

 10月7、8日にアボッツフォード・コンベントで華道展和開催、また、22日からのYering Station彫刻展に選出されました。どちらも観光名所です。ぜひ、お越し下さい。さらに、25日からはRMITでの公開短期講座・日本美学も新学期開始。今月は忙しくなりそうです。

2017年9月26日

一日一華:レンギョウ



メルボルン大学で開催された The Japanese Australian Poetry Festival のためのいけばな。

連翹は我が家の庭から。

毎年色々な機会に使っています。
今年は、今回が最後でしょう。

連翹は1年のほとんどは、あまり綺麗な植物ではないですが、
春のこの彩り、ほんの数週間のためには、納得。
庭が明るくなるし、いけばなにも使える。
重宝しています。

2017年9月24日

一日一華:結婚式の花準備中


結婚式の装花を準備中。
今週は全てこのプロジェクトのために。

いけばなだけやっていければいいのですが、
そうもいきません。
私の特殊な事情によるのでしょうが、
彫刻もやれば、西洋花もやります。
庭のデザインまでやります。

今回はバラだけで約2000本を注文済み。
それくらいのスケールのプロジェクトです。

問題は人手がないこと。

おそらく日本で先生が個展をやるということになると、
生徒さんはボランティアで協力してくれるでしょうね。
勉強になるはずです。

安い月謝で教えてもらっているのだから、
こういう機会にお返ししなければ、ということもあるでしょう。

今回の仕事は私にとって個展のようなもの。
しかし、私の生徒からはなかなか協力が得られません。
お金を払っても難しいでしょうね。

文化の違いですから、仕方ないのです。

プロの集団を雇えればいいのですが、
このような仕事が頻繁にあるわけでもない。

お金を払っても、また難しい。
あまり仕事ができない方にお金を払い、
仕事ができる方、例えば私の生徒にはボランティアでお願いするというような
おかしなことにもなりかねません。

なんとかいい方法を見つけたいのですが。

2017年9月19日

一日一華:穢れとしてのプラスチック


オーストラリア人原住民の信仰には、
自然と共生するための叡智が多く含まれているようです。

それは神道でもそうでしょう。
穢(けが)れとして禁忌してきた信仰の背後には
エコシステムを維持するために意義深いものがあるようです。

自然を守るために、自らの行動を慎む、ということ。
それは叡智と言えるでしょう。

「古代信仰の叡智に注目を」と何人かは繰り返し訴えていますが、まだまだ。
資本主義社会は欲望追求に忙しい。
自らの行動を慎むなどという考えは微塵もない。

例えば、自然の立場からすれば、プラスチックなど極めて有害。
海洋に浮遊しては、亀などの水生動物が誤って食べて悶絶死、
海底に沈んでは、マイクロ・プラスチックとなって小生物まで汚染し、殺す。
当然、人体へも危害を及ぼす。
「プラスチックは穢らわしい」という感覚が生まれ、
それを信仰にまでもっていけないか。

地球環境の汚染、疲弊をどうしたらいいのか。
あれこれ考えざるをえません。

2017年9月11日

一日一華:そして書くということ(4)


今年も国際いけ花学会の学術誌のエッセー部門の編集のお手伝いをしています。
いけ花体験談など募集中ですので、ぜひご投稿下さい。
2017年度は九月末日締め切り。
日本語では900字程度。
投稿料は無料で、採用された場合、学術誌を1部進呈します。
http://www.ikebana-isis.org/p/toukoukitei.html
https://ikebanastudies.wordpress.com/2017/09/01/call-for-ikebana-essays-4/

編集作業の苦労については以前にもここに書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_17.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_30.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_86.html

900字程度という短さですから、個人的な体験談、発見、洞察などでまとめるのが無難でしょう。

先に、ボツになる例として、他人を批判するような内容のもの、
事実を羅列しただけのもの、などをあげました。

今年も早速、ボツにしたエッセーがあります。
今回の問題は根っこの部分では、上にあげた2例ととてもよく似ています。

日本の侘び寂びとは、こういうもので、いけばなではこのように具体化されている、というような内容でした。

面白い内容です。
でも、ボツです。

おそらく私も大学生の頃、そんな種類の文章を書いていたかもしれません。
哲学めいたエッセー。

それはそれでいいのです。例えば、ブログに発表するとか、チラシに使うとか。そういうことならそれでいいのです。

でも、大学の先生に提出したらば、ボツでしょう。

私にも苦い思い出があります。

豪州の大学で最初の修士を始めた頃、学士論文を英訳し、要約を提出しろと求められたのです。

内容は、原始仏教の縁起論をデリダの理論を応用して読み解くといったようなものでした。自信満々で提出しました。

ところが評価は最低のD。

不満でしたから、当時、東大の客員教授をしていたオーストラリア人の友人に送って、読んでもらいました。

Dが相当!という返事。

Distinction のDだったのか?と思いましたが、今は、ダメということがよくわかります。オーストラリアの大学院で鍛えられたせいです。

さて、どこがいけないのか?

侘び寂びのエッセーの例で説明しましょう。問題の根っこは同じですから。

まず、侘び寂びというような美学用語はきちんと定義しないといけません。その上で使うこと。様々な解釈が存在しますから、なぜそのような意味で用いるのかという説明も必要です。

「自分はこう考える」というのもいいですが、他人の定義を踏まえ、批判し、その上で自分の解釈を持ち出すこと。

そうした準備がなく、「私の解釈では侘びとはこれこれだ」などとやられても、話にならないのです。

結局、こうした難しそうな専門用語はできるだけ使わないことです。書いている本人は、知識をひけらかしたいのかもしれませんが、逆に、無知を晒しているだけなのです。

この辺のところは、分かる人には分かる。
分からない人に説明するのはとても難しいです。

かつての私もなぜあの画期的な哲学的学士論文が評価されないのか、全く理解できませんでしたから。

ともかく、ここでの結論は、「短いエッセーでは専門用語は避けよう」ということです。

2017年9月4日

21世紀的いけ花考 第62回



 生け花は精神修行か、という話です。生け花は道徳でも宗教でもない、「芸術」だ、というのが重森三玲の主張。生け花を大きく変えました。重森については作庭家としての評価は高いのですが、生け花研究家としてはまだ評価が定まっていないように思います。資料が少ない上に私の勉強不足もあって、詳述はできませんので悪しからず。重森の主張で最も気になるのは、彼が「芸術」をどのように捉えていたのか、ということ。それが生け花をどのように変えたのでしょう?

 戦後から現在まで、生け花は芸術だという主張が主流です。その主張の根本は重森の芸術観だと言えるでしょう。よく議論されるのは、生け花の材料である草木への重森の態度。「それをどんなに曲げ様と、折ろうと勝手であり、さうすることにって草木が可愛そうだとか、自然性を否定するとか考えている人々は、頭から挿花をやらぬ方がよい」つまり、自己表現のための素材でしかないという唯物論。利用するだけの客観的な対象物。ここは注目したい点。

 実は、生け花の精神性は様々な切り口で議論することができます。型、自然観、修行論、素材論等々。畏友井上治さん(京都造形芸術大学)の「花道の思想」(思文閣)でもその多重性が詳しく議論されています。おそらくここまで深い論考は生け花研究始まって以来の成果でしょう。そうそう、この本の元になった論文に感心して私がファンレターを書いたのがきっかけで国際いけ花学会を共に創設するに至ったのでした。

 ただ、生け花の素材としての草木への態度の奥にある日本人の精神性については、あともう少し掘り下げて欲しかったです。依代としての草木への態度が、生け花の起源の一つとして言及されるのですが、その後、神道的な要素と生け花との関連が深く議論されることはほとんどありません。

 本来、花は日本人にとって神聖なもの。そこが納得できると、重森の主張がいかに生け花の伝統に反するものか、そして、重森の思想を引き継いで発展した草月流をはじめとする戦後の前衛生け花運動が、伝統的な生け花といかに断絶するものであるか、理解できるでしょう。次回は日本人にとっての花とは何かについて、再確認しておきましょう。

 今回紹介するのはレセプションへの商業花。いろいろ試みて楽しんでいます。

 さて、8月に生け花ギャラリー賞の発表がありました。1万6千人超の注目を集めるコンクールとなりました。また、10月7、8日には和・華道展がアボッツフォード・コンベントで開催されます。お見逃しなく。

2017年9月3日

一日一華:オンライン指導


生け花のオンライン指導についてもあれこれ検討しています。
とりあえず、作品の添削指導をやっています。
http://www.shoso.com.au/p/e-learning.html

私の生徒からのリクエストでやっていることが多いのですが、
最近は面識のない方からのリクエストにも応じています。

利用してみようという方は歓迎です。

おそらくこれはそこそこの可能性を秘めていると思います。
そこそこです。
利用者に、どこまで満足してもらえるか。
難しい面がたくさんありますから、どこまで伸ばせるか、未知数です。

最も難しいのは、教材の一方通行ができない点。
与えるだけでなく、個別の対応が求められるという点。
ビジネス的にはあまり効率が良くないのです。

私としても、本当にやる気のある生徒でないと、
わずかなお金のために自分の時間を費やしたくはないです。

私の生徒(生け花師範)に協力してもらって、もっとシステム化できないか
という事も検討しています。

もう一つはオンラインコース。
こちらは教材は出来上がっていますが、もう少し手を加えたいというのがあって、なかなか発売に至っていません。
おそらくこちらはかなり大きくなる可能性はあると思います。

なぜなら、現在の日本の生け花の多くは家元制に依存していますから、
どの花道流派もオンライン指導には手をつけられないのです。
家元制は、オンライン指導などが広まると、立ちいかなくなります。

つまり、オンラインで学びたいというニーズはあるのに、指導しようという人がいない、というのが現状なのです。

しかし、オンラインで生け花はどこまで学べるものでしょうか。
本当にやろうとなると、試行錯誤を覚悟することになるでしょう。

2017年8月27日

一日一華:2017年いけ花ギャラリー賞


2017年いけ花ギャラリー賞がようやく発表になりました。
https://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/2017/08/ikebana-gallery-award-2017.html

生け花学習者向けの(師範は除く)コンクールです。
ですから、師範の方々の作品と比べれば、多少未熟な点はあると思います。

でも、今年はレベルが上がってきましたね、と何人かの審査員に言われました。
それは大切なことだと思います。

何と言っても16000人超の方々が見て下さる受賞結果です。
年々、その数は大きくなっています。
その中には世界中の生け花学習者が多く含まれます。
多少とも参考になるような作品でないことにはこの人気も続かないでしょう。

通常、生け花学習者の作品がこれほど多くの方々の目に触れる機会はあまりないでしょう。
おそらく著名華道家の作品でもこの数はなかなか達成できないはずです。
そう考えると、この賞も特徴あるものになってきたように思います。
審査員の方々、私のスタッフのみなさん、皆、ボランティアでよく頑張って下さっています。改めてお礼申し上げます。

2017年8月21日

2017年8月13日

いけ花上達のコツ(3)


生け花上達のコツは、瞬発力と持久力でしょう。
それらについては、いずれもっと詳しく書くことがあるでしょう。
その時は、このタイトル、「上達のコツ」にもっとふさわしい内容になるはずです。

しかし、今は、少々別のことを考えています。

第1回目、2回目は以下のとおりですが、第2回目に書いた問題について、さらにあれこれ考えているのです。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/08/blog-post_9.html

つまり、生け花を外国人に効果的に教えるにはどうしたらいいのか?

この問題にきちんと対処するならば、
いけ花指導を国際的に展開する上でも、とても役立つはずです。

日本には、千以上の生け花流派があるようです。
海外展開を目指したいという流派も多いはずです。

おそらくそれはとてもたやすいことでしょう。

海外には習いたいという人が多いからです。
さらに、その需要に答える指導方法を確立している流派がないからです。
外国人にきちんと教えられる生け花教師を養成しようなどと真面目に考えている流派はないと私には思えます。間違っているかもしれませんが。

「英語ができればいいのでは?」
実際、それだけでは不十分です。

前回私が指摘した、教えにくい外国人生徒の典型的なタイプに
対応できる指導力についてきちんと考えている流派があるでしょうか?

つまり、作品に独特のクセがあり、
自分の作品の未熟さを謙虚に認めることがなく、
言葉で、訂正すべき点の説明を求めてくる。

海外で教えている方ならおそらく出会ったことがあるタイプではないでしょうか?
「こういうタイプにはいけ花は向かない」と切り捨てたくなりますが、
こういう方は、程度の差はありますが、とても多いのですね。

生け花流派が、その流派の家元やトップクラスの師範を海外に派遣することはよくあります。
デモをやったり、海外会員を指導をしたり。
それはそれで重要でしょうが、海外の生徒数を伸ばすことが目的であるならば、
上記のような教えにくい外国人生徒を上手に教える方法を指導できる講師を派遣して、
海外の教師に指導実習すべきです。

それが本当に流派の将来のためになる投資です。
生け花教師の作家としてのレベルアップも大切ですが、指導者としてのレベルアップがより重要なのです。

さらに、上級師範のテストというのがありますが、特定流派の場合ですが、私の知る限り、とてもお粗末なものです。
実習と筆記試験。実習はともかく、筆記試験の内容は、家元の言葉を自分なりに解釈しなさいというようなもの。
生け花、芸術についての小論文。
芸術大学の大学院レベルで学んだ人には容易すぎますし、
その家元の言葉について容易に歴史的な限界を指摘できるでしょう。
私の「21世紀的いけ花考」を読んでおけば、容易にパスできるレベル。

むしろ上級レベルの師範の昇級試験には次のようなテストはどうでしょう?

ある外国人生徒が作った作品を提示します。
そして、この作品を講評しなさい、と求めます。 
さらに、手直ししなさい。
その結果、どう良くなったか言語で説明しなさい、とやるのです。

実は、これこそ、海外で生け花を教えている私たちが日々直面している問題なのです。

しかし、また、手直しし、なぜそれが必要なのかを言葉で説明できたとしても、
おそらく、達成できるのは、目的の90%くらいまでだろうと思います。
つまり、バランス、コントラスト、リズム、パターン、ハーモニーなど様々なデザイン原理の共通の用語を用いて説明しても、生け花の9割程度しか説明できないのではないかと思います。

最後の1割は、言語でどうしても言いあわらせないだろうと思います。
それこそ、生け花がデザインを超える側面なのです。

今回書いた問題はとても大きいものですので、いつかまた、解説します。

2017年8月9日

一日一華:いけ花上達のコツ(2)


いけ花上達のコツについて再び。
第1回目は以下でした。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html

結論から始めれば、要は瞬発力と持久力ということだと思います。

第1回目に書いたことは、瞬発力について、ということになるでしょう。
1回1回の作品制作に際し、全力投球する集中力、瞬発力。
そして、そうした訓練を長く、何年も継続させる持久力。
陸上競技の短距離と長距離、それぞれに求められる力が必要なのだと思います。

それはそうなのですが、
外国人に教えるということでは、やはり独特の苦労があります。
前回、学ぶ態度の違いということを書きました。

結局、同じことなのでしょうが、手強い生徒が何人かいます。

多少下手でも、個人で楽しんでいこうという方ならそれでいいと思います。
私の指導もそれ相応で。

ところが、自分は指導者を目指す、とか、
いけ花をデザインの仕事に生かすのだ、とか、
とても動機が強い生徒の場合、きちんと学んで欲しいなあと思います。

すると、私も厳しくなるのですね。
となると、日本人ではありえないような指導上の難しさに直面することになります。

何でしょう、彼らのあの作品の独特のクセは?

説明が難しいのですが、私の日本人の生徒の場合、作品がとても洗練された感じがします。
弱点も見つけやすいですし、指導も楽。
自分の伝えたいことが、すっと受け取ってもらえていると感じることが多いです。

ところが、一部の(1割ほどですから、大したことではないのですが)外国人には、何度注意しても直らない特徴があります。生徒作品は、次のフェースブック上で紹介していますので、ご参照下さい。https://www.facebook.com/IkebanaGallery/

作品がうるさいのです。
色使いに品がないのです。
ただ強いだけ、繊細さがないのです。
あるいは、力がこもっていないこともあります。

これは、文化の違いなのだろうか、と思うことがあります。
美意識の違い、なのかもしれないです。

ある生徒は、くねくねした枝物をよく持ってきます。前回は梅でした。
確かに、素材は綺麗。それらをてんこ盛りにした上、足元を赤と白の椿で埋め尽くします。
初年度の生徒ならともかく、2、3年やっている生徒がこんなことでは!
と、珍しく腹が立ちます。
いけばなを教えて腹がたつなんて本当に珍しいこと。

椿を全部撤去しろ。
枝をもっと切り取れ、と。
もちろん、そんなに厳しくは言えないです。
怒りを隠して、やんわりと諭します。

しかし、
素直には従ってくれません。
テキストのサンプルはこうなっているとか、
枝のここが一番美しいのにとか。
自作を正当化します。

それに、理屈で対抗していかなければいけません。
こうなると、教えるのは楽ではありません。
時に、理屈で説明できなくても、ダメと感じることがありますし。
「ダメなものはダメだ!」と言いたくなりますが、
それで納得する相手ではないのです。

綺麗な素材を使っているのですから、
確かに、綺麗ではあります。

でも、生け花が目指す美しさは、もっと別のものです。

たとえば、ありふれた花材でも、雑草でも、
素材を組み合わせ、デザインする。
そこから美しさが生まれるのです。
美しさは、素材から直接生まれるのではなく、
作者が作り出すものです。

素材発の美しさではなく、作者発の美しさ。
それが生け花の美しさなのです。

学ぶ態度に謙虚さがないならば、徒労だろうな、とか、
下手で傲慢な師範を育てるよりは、やめてもらったほうがありがたいとか、
思い悩むことはありますが、
長く、忍耐を持って続けてくれれば、
いつか身につけてくれるのだろうと信じつつ。

そして、また、大部分の生徒はきちんと育っているじゃないか、
と自分を鼓舞してみたり。

結局のところ、伸びるか、伸びないか、
その違いは学ぶ態度にあるとよく思います。

ふと気付いたのですが、伸びる生徒はアジア系の生徒に多いようです。
それは師の教えを大切にしようという、儒教的な文化の影響でしょうか。
先生に反駁したりすることもないですね。
先生からするととても教え易い。
生け花などの芸事にはそうした態度が重要なのだろうと思います。

ところが、上下関係よりも横の関係を重視する文化圏出身の生徒の場合、
上記の通り、独特の苦労があるわけです。
教えにくい生徒はなかなか上達してくれません。

生け花の教師ほど楽しい仕事はないといつも皆に言っています。
それでも、瑣末な苦労があるのですね。

2017年8月6日

21世紀的いけ花考 第61回


 「生花は精神修行か」という話です。16世紀に池坊専応が「専応口伝」で、生花は仏教的な悟りに至る道だと言ってくれました。私たちはその言葉を頼りに励んでいるわけです。通念としても生花は精神修行だろうと多くの日本人が思っているでしょう。
 
 しかし、昭和8年、重森三玲が「生花は精神修行じゃない。道徳とは無関係だ」と宣言します。では、生花とは何か?芸術なのだ、というわけです。新興生花宣言と言います。これが日本の生花を大きく変えていくのです。
 
 昭和時代は生花史上、最大の激動期だったでしょう。「華日記ー昭和生け花戦国史」(早坂暁)という面白い本がありますが、これは昭和の華道界の混沌について。昭和初め自由花が初登場。これは革新的なことでした。10年頃に新興生花宣言。戦争のため生花は壊滅状態。戦後、生花人口急増。30〜40年代、空前絶後の生花ブーム到来。

 これらの流れは全て繋がっています。自由花、さらに芸術としての生花宣言があって、生花ブームが生まれるわけです。つまり、精神修行としての生花という側面は影が薄くなっているのです。重森の影響と言えるでしょう。今回の話をふまえ、重森の考えを、次回探ってみます。

 その前に、私自身のことを少し。おそらく、生花が精神修行だと確信できていたら、私ももう少し早くに本気になれたでしょう。生花に足のつま先をちょいとつけた頃、本当に生花をやって大丈夫かなと悩んだものです。現在、遠藤周作研究者として活躍している旧友にも不安を語ったことがあります。これを続けて、自分はどこに到達できるのだろう?人生をかけていいのか?後で「しまった」なんてことにならないか。「生花は道なんだから、大丈夫じゃなかろうか」「そうかな」というようなやり取りをした覚えがあります。共に確信はなかったと思います。私が長い間、フラフラしていたのも重森のせいかもしれないのです。
 
 さて、8月18日、国際いけ花学会会長、小林善帆先生の講演がメルボルン大学で開催されます。是非お越し下さい。

 また、私の生徒の師範取得者が増えてきました。彼女らに協力してもらい、救世軍と提携し、募金活動としての生花ワークショップを発案しました。生花史上初の試みかもしれません。私たちのワークショップを開催すると、1時間あたり$200の収益があり、$50募金できるという仕組み。カフェ、成人教育機関、美術館、図書館、教会などで活用してみませんか?
 
 今回、紹介するのは来年度用の無料カレンダーに選んだ作品。私のサイトからダウンロードできます。 


2017年7月31日

いけ花ギャラリー賞について(2)



いけ花ギャラリー賞をより面白くしようと、ピープルズ・チョイス・アワードを設けました。フェイスブック上でのいいねの数を競う人気投票です。私はあれこれ工夫するのが好きなんですね。

やってみると、これがまた面白く、勉強になります。

基本的に遊びでしょう。
厳密な審査で決まる賞ではありません。
それはそうなんです。が、しかし、、、

まず、プラスの面から。
最大のプラスの面は、ポストが俄然多数の方に拡散するということ。
私たちのポストは、通常、数百から千人くらいに届きます。
せいぜい2千人とまりです。
しかし、この人気投票受付のポストは1万5千人超に届きます。


これはこの賞を一層格式のあるものへとしていく準備として重要なことです。
注目されないことには賞の権威もつきません。

次に、生徒は普段では経験したこともないほどの「いいね」をもらったり、コメントをもらったりすることになります。これは大きな自信につながるようです。それだけで、ピープルズ・チョイス・アワードの意義は十分です。

ちょっと、ネガティブな面。

まず、必要以上に熱くなる人があるということ。競争心丸出しで、「いいね」をくれと宣伝するのですね。たかがピープルズ・チョイス・アワードでしかないのです。
それを獲得したからといって、何でしょう。
しかし、なかなか冷静になれない方があるのです。

そこで、一人3作以上を選ぶこと。
一つの作品のみをシェアしないこと、アルバム全体を(予選通過作品の全作)をシェアすること、などとお願いしています。

しかし、1作のみをシェアし、この作品を「いいね」してくれとやる方がよく出てきます。

これは、フェアじゃないと思います。そういう人が出たら、ピープルズ・チョイス・アワードはキャンセルするとまで言っています。

しかし、こういう行為を不公平と断じるとしても、どこまで厳密に対処するか、
これはかなり難しい問題です。

なぜ、そういうことをするのか、というと、一つには私たちの指示を理解できない方があります。英語の問題もあるでしょう。また、ピープルズ・チョイス・アワードとは、結局、友人に拡散して、できるだけ多数の「いいね」をもらう、そういうものだと思っている方があるようなのです。つまり文化的な差異です。さらに、当方の指示など読みもしないという方もあります。

しかし、大多数の方は当方の指示に従って、冷静に選んで下さいます。
そういうたしなみのある、私たちが期待する楽しみ方をして下さいます。
それは多く、特定の文化圏の方です。

逆に、大騒ぎをして、不公平でも何でもやり、賞を取ったが勝ち、とやるのも別の特定の文化圏の方に多いようです。

文化の差というのはどうしようもないのかなと思ったりします。

例えば、スポーツの国際試合などでも、一般に日本人はアンフェアな選手など嫌いでしょう。たとえ勝ったとしても反則が多いような選手、態度が良くない選手は応援しないでしょう。

ところが、勝てばいいじゃないか、という国があることも見聞きしているはずです。
文化の違いということでは、似ています。

どこまで許容するか、どこから厳密に対応するか、
異文化と付き合う上では重要な問題でしょう。

2017年7月26日

一日一華:超えるということ(2)


フェースブックを見ていると、
著名人の略歴を紹介したビデオがよく出てきますね。
1、若い頃は厳しい境遇にもめげず、努力した。
2、その結果、今では、資産数千億。世界有数の億万長者だ。
3、皆も苦労に負けずに、頑張ろうね。
というポジティブなメッセージ。

私の反応は、
1、なるほど、そうだったのか。大変だったろうな。
2、それで?
3、そう言われてもなあ。
多分、あまり素直でないのでしょうね。

でも、億万長者になりたいと、それほど強く思えるものでしょうか?
もちろん、私も裕福ではないですから、お金はあればありがたい。
しかし、遣い切れないほどの資産を手にして、
それだけで人は満たされるものでしょうか?

おそらく、例えば日本の引き込もりの方はもちろん、多くの若い人たちも
上のようなメッセージを与えられても、しらけてしまうのではないでしょうか?
「よおし、自分もやるぞ」というような動機付けにはならないだろうと思うのです。
人生の成功って、そんなものなの?その程度?という具合に。

自己実現だとか、好きなことを精一杯やってみようとか
言われても何をやっていいのかわからない。
現実的な仕事も生活の手段としてはやらざるをえないと了解できるものの、
そこにあまり意味を見出せない。
生き甲斐が見つけられない。
自分の命をかけてみよう、
燃やし尽くそうというほどに熱くなれるものが見つからない。
そういう悩みは多いと思います。

これは仕方ないことだと思います。
なぜ仕方ないことなのか?
では、どうすればいいのか。

「あること」に気づく必要があるのではないか、と私は思います。
「あること」とは、上記のようなビデオのメッセージ、
努力して、困難を克服して、人間的にも成長して、お金を掴もうよ、というメッセージの出処はどこか、ということ。

それを歴史的に理解すること。

そして、もしかすると、現在は、そうした価値観が終焉を迎えているのではないか、ということにまで考え及ぶ必要があるのでは?

つまり、そうした価値観を超える時期にきているのではないか。

もしそうだとすると、もっと新しい価値観はどのようなものか。
その価値観は、もしかすると、上記のようなビデオメッセージにしらけてしまう人々までをも熱くするのではないか。

そんなことまで、考えさせてくれたのが、前回(https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/07/blog-post_25.html)紹介した以下の本だったのです。
T.J. Demos (2016) Decolonizing Nature: Contemporary Art and the Politics of Ecology.

いずれ、内容を紹介できると思います。

既存の価値観を超えるということは、どういうことかと考えていくことになるでしょう。

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