華道家 新保逍滄

2015年3月18日

一日一華:イースターデイジー



イースターデイジーをたっぷりと。

安価な花の代表格なのでしょうか。
以前、メルボルン・フラワーショーで
どっさり使ったところ、
他の出展者(大部分は西洋花)から、
「よくもこんな安い花を使う気になったわね」
そして、「こんなに効果的に使えるものなのね」
と二重に感心されたことを思い出します。

フラワーショーでは
高価な花をどっさり使うことが宣伝になるようですが、
私にはあまり興味のないアプローチです。

自分に挑戦できたら楽しいかな、と思います。
なかなか大変なのですが、今年も出展します。
2015年は3月25日より開催。
http://melbflowershow.com.au

2015年3月17日

一日一華:小説・教室のうわさ話(6)



我が家の前の並木から枝を切り取る。
オーストラリアのネイティブで常緑樹。
一応、市が管理しているわけだが、
生花教室に使う分位は歓迎してもらえるはず。

5、6本枝を持って歩いていると
ネイビーブルーのメルセデスが
すぐ脇に静かに滑り込んできた。
「ハロー」
サングラスのマリアが微笑んで、手を振ってくれる。
指の爪は銀色で、星がちりばめられている。
小学生の女の子が好みそうな模様だが、
彼女の声の幼さい印象とよくマッチしている。

彼女が車を運転してくるのは初めてだと思う。
それに新しいメルセデス。昨年のモデルだ。
「今日はご主人の送迎じゃないんだ」
「自分で来た方が気が楽でいいわ。
それに、彼、新しい仕事が見つかって、忙しいみたい」
「どんな仕事なんだろう?」
「それがね。教室で教えてあげる」

だいたい時間になると生徒は揃い、
各自、準備を始め、制作にとりかかる。
水がない、添え木がない、剣山を忘れた、
などという生徒のお世話をして一息つく。

マリアのいるテーブルで笑いが起こる。
「そう。うちの亭主」とマリア。
3、4人が新しい銀行の広告チラシに見入っている。
既存の二つの小銀行が合併して新しい銀行ができた。
オーストラリアには4つの大銀行がある。
第5の位置につけるかどうか、という話の出ている新銀行だ。
その銀行のチラシでは、
中年男性が自分の家の前でにっこり微笑んでいる。
彼の側にはきれいな奥さん、二人の子供。
そして、大型の車まで。
「わが銀行の低利ローンを使えば皆が欲しがる商品は
みんな手に入って、こんなに幸せになれるよ」
というメッセージだろう。
テレビでも高速道路の大型広告板でも昨今おなじみの男。
髪は短く、丸い目でコメディアンのように笑っている。
「笑ってちょうだい。おかしいでしょう?」
え、まさかこの男が?

こうした広告に出る「理想の家庭」は、
本当の家族ではなく、モデルの寄せ集めであるらしい。
マリアもかわいらしい女性だが、
広告の奥さんほど細身ではない、かもしれない。

「だからね、彼、趣味で演劇やっていたの。でも、たいしたことはなかったわけだけど。
今回、オーディションに通って、このコマーシャルに出ることになって」
「それはたいしたものだね」と私。
「本人は満足しているわ。仕事探しやめて、フルタイムの芸能人になろうか、だって。
気楽な人よね」
「まあ、いいお金が入るなら、それも悪くないでしょう」と私は笑った。

他の生徒の作業を見て廻っていると、「ショーソー」と
ナタリーが小声で話しかけてきた。
「マリア、本当はとてもハッピーなのよ」と微笑んだ。
「家のローンも完済できたし、新しいメルセデスまで買ってもらえたんだから」
「へえ、そんなにお金いただけるものなのかあ」
「いろいろ契約やなにか面倒はあるらしいんだけどね」

我が家にふて腐れたような顔でやってきたあのロシア人男性。
マキシム機関銃を撃ちまくっているわけでは、もちろんなく、
コメディアンなのであった。
言われてみて、初めて、「あ、あの人だ」と気付く。
イメージのギャップが大き過ぎる。
今度会ったら、何て言ったらいいのだろう?

2015年3月7日

一日一華:小説・教室のうわさ話(5)



マリアの携帯がまた鳴った。
生花クラスの最後はいつもShow & Tell。
今日の作品を順に皆で見て回る。
合評会といったところ。いつも10分ほど。
合評会が始まってから、
マリアの携帯が鳴るのは4回目だ。
呼び出し音は聞き慣れたクラシック音楽だが、
4回目となると、
さすがに穏やかな上品さはもう感じられない。
それでもマリアはおっとりと携帯に話しかける。
「今、行くって言っているでしょう。もう終わったのよ。
片付けしているところ」
マリアが携帯を切る。
1秒たったろうか。
ひと呼吸も終えないうちに、また、携帯が鳴る。
10人ほどの生徒の間にも、
どこか緊張感に似た異様な空気が漂う。
「マリア、早く行った方がいいよ」
私は笑って言った。
「仕方ないわね」とマリアは携帯にでる。
自分だったら多分、腹を立てるんじゃなかろうか。
こんなしつこい相手には、電源切るだろうなと私は思う。
「はいはい、今、移動中。玄関のドアあけたところ。そうだ、あなた荷物運ぶの手伝いにきてよ。家の前にいるんでしょう?」

間もなく髪を短く切った大柄の男がやってきた。
大股で歩いているのに、素早い。
きっとロシアでは軍隊にいたんじゃないかなと思う。
マキシム機関銃をぶっ放し、敵軍の50人位は血祭りに上げているかもしれない。

ソ連についてだったと思うが、
多くの結婚がうまくいかないという話を、以前、聞いたことがあるのを思い出した。
多くの男にとっては入隊することが生活の安定につながる。
多くの女性にとってはそういう選択はない。
そこで学業に励む。
しかし、知的職業に就いても軍人の夫の給料には及ばない。
しかも、夫と知的レベルが違うために会話がうまく成り立たない。
まあ、どこまで正確な話なのかは定かではないが。
ある国についての大雑把なうわさ話など
ほとんどがいい加減なものだ。 

男は私達に一瞥もせず、
花器や花材の入ったマリアのプラスチックの箱を両手で持ち上げると
さっさと去って行った。
「じゃ、またね」と
マリアは靴を直しながら夫を追う。

「可哀想なマリア」
ナタリーが私にそっと言った。
「彼女の夫、鬱らしいの。突然、解雇されたんだって」
マリアの生活を想った。
鬱で忍耐力のない失業中の夫。
美しいが、金銭感覚が乏しい娘。
フランス語の家庭教師で家計を支えるマリア。
生花を続けらるのだろうか?

それから数週間。
マリアの生活にまた異変が起こったようだ。

2015年3月5日

一日一華:小説・教室のうわさ話(4)



「フェースブックに私の作品載せてくれたのね。
ありがとう。
娘が手伝ってくれて、ようやく見ることができたわ」
マリアが言った。
嬉しそうにするとピンクの頬がいっそう輝く。
日本ではリンゴのようなほっぺたなんていうが、
マリアは白い頬がピンクに染まっているわけで、
もっとジューシーな感じ、ピンクのプラムといったところか。
私の生徒の生花作品を定期的にフェースブックに載せている。
いろいろな反応があるのがとても嬉しいようだ。
手間はかかるが、できるだけ続けてみたい。
「お嬢さんって、大学生の?
留学中じゃなかった?」
以前、スマートフォンでとてもきれいなお嬢さんの
写真を見せてもらったことがある。
当地の有名大学で工学を勉強しているという。
移民の子供達は勤勉であることが多い。
親の苦労を見て育つせいか。
マリア夫妻はロシアからの移民だ。
「それがね。留学は1ヶ月で打ち切り。
アムステルダムに6ヶ月滞在のはずだったのに」
マリアは少し幼さを感じさせるような声で、もったり話す。
風呂からあがってのんびりくつろいでいるところだ、
というような穏やかな響きがある。
きっとなにが起こっても
そんなゆったり感を持ち続けられる人なのではなかろうか。
「先月、バルセロナに家族旅行に行ったでしょう。
娘に『合流しよう。来なさい』って言ったらね、
行きたいんだけどお金全部使ってしまって行けないって。
仕方ないからバルセロナから航空運賃送金してあげて、
もうそのまま連れて帰ってきたの。
本当にすっからかん」
マリアは丸い目をいっそう丸くして
驚き、あきれたという表情。
だが、少しも怒りを含んでいない。
「毎晩、パーティーだったのかな?」
「そんなところでしょうね。
それなのに、今日、『日本行きの安い航空チケットが出てたよ。
みんなで行こうよ』ですって。
いいかげんにしなさいって言ってあげたわ」
マリアは微笑む。
たぶん、マリアに叱られてもあまり怖くないだろう。

そんなマリアに異変が起こった。

2015年3月2日

21世紀的いけ花考(33)


 室町時代に登場したいけ花(総称)の異端、生花は「主流の立花と違って、うちは花に新しい生命を与えているのだ」と主張したらしい、と推察しました。これはどういうことでしょう?

 単純に考えれば、新しい生命とはおそらく芸術的な(当時、そのような言葉は存在しませんでしたが)生命でしょう。生物学的な生命ではなく、象徴的な生命。立花は形式的で、生き生きした生命感がない。それに対し、生花は切り取ることで一度は生物学的な生命を終えた花に、新しく芸術としての生命を与え、蘇らせているのだ、ということでしょうか。確かに、それで意味は通ります。立花批判として了解出来ます。

 しかし、それでは私は満足出来ないのです。言葉の上で何となく分かるというのは、どうも信用出来ない。もっと考え尽くさなければ。

 以前、いけ花の本質とは何か?というテーマで書かれた博士論文を読んだことがあります。博士論文です。結論は「生き生きした感じ」だというのです。唖然としました。確かにたくさんの文献が引用されてはいますが、この薄さは少々気の毒で批判さえできません。

 おそらく私がこれから考えようとしていることも生花の本質の追究。それを論文ではなく、平易な言葉で書いてみたいのです。

 生花は切花に生を与えているというのですが、その「生」とは何か?「生」は日本文化の中でどのようにとらえられてきたのか?「日本文化における生の認識について」と焦点を絞れば「生き生きした感じ」などと結論して笑われることもなく、もう少し深い論考になることでしょう。

 日本の歴史を通じてある程度共通する生の認識、日本的な生の概念があるのでしょうか?あるよ、と教えてくれるのは小林秀雄。この問題に関する彼の文章は学術的ではありませんが、参考になります。

 今月紹介するのは、クラウンホテルの此処レストランに活けた正月の花。毎年お声をかけていただいています。当然のことながら商業花ですから自分勝手に活けるわけにはいきません。安全性と便宜性を重視し、できるだけ持ちのいい花を選んでいると、毎年似たようなデザインになりがち。それでも限られた範囲で工夫をしています。

 さて、今年の3月にはメルボルンフラワーショーへの出展、4月には国際いけ花学会での研究発表などを予定しています。詳細は私のサイトをご参照下さい。

Shoso Shimbo

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