華道家 新保逍滄

2015年8月25日

一日一華:現代芸術における花


春近し。
我が庭のぼけ、馬酔木を他の花材とともに
盛り込んで。

現代芸術における花と
いけ花における花との比較、
ということで論文を用意しているところです。
時間はあまりないのですが、課題が次々出てきます。

現代芸術における花という場合、
題材としての花と
材料としての花と
区別して考えなければいけません。

題材としては長い歴史があります。
17世紀のオランダ静物画が特徴的で、
現代芸術にも影響大。

材料としては20世紀モダンアートの時代になってから。

このあたりが
いけ花との比較を考えていく出発点です。

国際いけ花学会の学会誌、
「いけ花文化研究」に発表出来ればと
思っているところです。




2015年8月23日

一日一華:RMIT大学にて


RMIT 大学での公開講座、「いけ花から現代芸術へ」にて。

この講座はとても楽しくやっています。
条件はいろいろありますが、やってみたかったことが
ぎっしり詰まっている感じなのです。

通常のいけ花クラスでは、流派のテキストに従って指導していますが、
この大学での講座はすべて私のカリキュラム。
自由にやっていいよということなのです。

流派のコースでは充分できないこと、
芸術学部のコースでは充分でないこと、
それらをあれこれ考え、

芸術の基礎概念から、
バウハウスの教授法まで
様々な資料を検討しつつ、講座を作っています。

そして、参加者が楽しいものでなければなりません。

新しいいけ花講座のあり方が
示せないか、とまで考えています。

たぶん、この講座が続けば、
理論的にも充実した、新しいテキストが書けるくらいの
内容になりそうです。

The students were asked to add another material (including flower) to the branch sculpture they created week before, creating contrast within the work. 

Japanese Aesthetics: From Ikebana to Contemporary Art 
Shoso Shimbo, PhD
RMIT University Short Course
New intake in October 2015
http://bit.ly/1hz7BTb

www.shoso.com.au

2015年8月19日

一日一華:線の対比、そしてメールのマナー


自然の抽象的な線、スパニッシュアイリスで。
人口の有機的な線、錆びたワイヤで。
これほど強いコントラストには
大胆なデザインで。

さて、メールのマナーについて。
おそらく一般企業にお勤めの方にはいろいろマニュアルがあって
きちんと修得されているのでしょう。
私はあまり詳しくありません。
ただ、応用言語学を学んだ者として、
最近、「ちょっと、どうかな?」と感じることがありました。

相手は20代の大学生。
若い方とあまりメールのやり取りの経験がないので、
若い方の間では普通のことなのか、
この学生が特殊なのか、分かりませんが。

例えば、こんなやり取りがあったとします。
1、質問:次の日曜日何をしますか?
2、返答:図書館へ行きます。
これだけでやり取りが終わったら不自然です。

1、質問:次の日曜日何をしますか?
2、返答:図書館へ行きます。
3、確認:そうですか。
と、質問者は3で相手の返答を理解したことを示します。
時に、感謝であったり、共感であったり。
「日曜日も勉強ですか。大変ですね」と続けてもいい。

この20代の学生は私にいろいろ尋ねてきます。
例えば、
「メルボルンは寒いですか」
「とても寒いよ。8月の朝は5度以下になることもあるんだ」
すると、そこでもうメールが来ない。

「メルボルンでラーメン食べられますか?」
「最近、日本のラーメン屋が増えてきたね。
ブームって言っていいくらいに」
するとそこでもう応答がない。

時に、ちょっと専門的な質問があって、それに答えても同じ対応。
答さえもらえば、本人はそれでいいのかもしれないですが、
やはり、教えてもらったら、最低限、お礼が必要でしょう。
すぐに返答出来ない場合は、
「ちょっと考えてみます。数日中にお返事します」とか、
「了解」のひと言でもいい。
相手からメールをいただいたらすぐ何らかの返答をすべきです。
私の身内とかスタッフであれば、
24時間以内に返答するよう、口うるさく指導するでしょう。

それは礼儀でもあります。
何の返答もしないというのは、
場合によっては相手にかなり悪い印象を与えるはずです。
「お礼の言葉も無いのか。こんな無礼なヤツの質問、もう答えてやるものか」
なんていうことにもなるかもしれません。
あるいは「発達障害でもあるのだろうか?」と心配されるかもしれません。
さらには「自分の返答に腹を立て、相手は黙っているのだろうか?」と思われるかもしれません。私は実際、そう感じて、自分の送ったメールを読み直したものです。

また、応用言語学的にも、
ディスコースを作る能力が欠けている、
コミュニケーション能力が欠けているという見方をされます。
この点に気付いて、直さない限り、
こんな方は言語教師にはまずなれません。
言語教師とは言語を教えるのではなく、
それ以上に
コミュニケーション(言語+コミュニーケーション能力)を教えるのですから。

2015年8月18日

2015年8月17日

一日一華:春を待つ


春のホームパーティー、
テーブルアレンジメントを依頼されました。

ベネチアガラスの花器を用意され、
チューリップをたっぷりというリクエスト。

浅い花器で、水がほとんど入らない、
オアシスも剣山も使えません。
チューリップを寝かせ、ツルで花器に縛りつけています。

私のアシスタントも苦労して仕上げてくれました。
ありがとう。

2015年8月13日

一日一華:カーネギー「人を動かす」


歳のせいでしょうね。
以前ほど寛容性がなくなってきたような。
つまらないことにこだわってみたり。

特に気になる他人の欠点は、
かつて自分にもそうした短所があり、なんとか克服したようなもの。
かつての愚かな自分を見ているようで、何ともおさまらない。

最近、あるコンクールの審査員を依頼されました。
一日ボランティアで働くことになりますが、
「私でよければ引き受けましょう」と返事。
しかし、その後のやりとりが不愉快で辞退してしまいました。

「名前これでいいんですよね?」(違うよ)
「博士号持ってるんですか?」(それくらい事前に調べて、お願いするのが礼儀だろう?)
「大学の教師してたんですか?」(このコンクールに関連した本まで出版しているよ)

「ちょっと不愉快ですよ」と直言しました。
すると、「こっちだってボランティアでやってるんですからね」

こんな人達と関わっていられるほど若くはない。
若い時は見下されるような場合も我慢して
いろいろ経験すべきだと思いますが。
辞退決定。
「新保は気難しいヤツだ」とか言われるのでしょうが、
そんなことはもうどうでもいい歳になったように思うのです。

間違っているかもしれませんが、私からすると
この方はおそらく社会経験が乏しいのでしょう。
ビジネス上の手紙の書き方もご存知無い。
大学教師だったらしいですが。
人に頭を下げたことがないなんていう方も時にありますが、
そうした希有なタイプでしょうか?

しかし、ボランティでやってるんだ、などと言う時点で
ボランティアの精神的な部分は吹き飛んでいます。
なにもしないほうがいい。

私自身、いけ花ギャラリー賞を主宰している関係で、
審査員をお願いしたことがあります。

立派な仕事をされている方々から、
ご多忙中ボランティアでご協力いただくわけですから礼を尽くします。
まず、相手のキャリア、バックグランドを調べます。
それをふまえて、貴方のご協力を是非いただきたい、とお願いします。
相手への敬意を示す、
相手がいかに重要な存在であるか、説得する。
さらに、負担を最小限にする工夫をする。
また、充分なお礼はできないものの
サイト上に各審査員の紹介をしっかり掲載する。
ビジネスをお持ちの方はそのサイトへのリンクも表示。
また、ことあるごとにお礼を申し上げる。
その程度の誠意を示さなければいけないでしょう。
その結果、毎年全員の方から
「次年度も引き受けますよ」とお返事いただいています。

カーネギーは「人を動かす」の最初に、人を動かす三原則を示しています。
そのひとつが相手に「重要感をもたせる」

今回、私が感じた不愉快はその原則が欠けていたからです。
それでは人は動きません。
自分の努力や業績を認めてくれる相手のためなら
通常人は喜んで力を貸してくれるもの。
しかし、きちんとした紹介さえしてもらえそうにないとなれば、
人は動かないでしょう。

「審査員なんてだれだっていいんだ。人数合わせだからさ。あんたのこと全然知らないし、興味もないんだけどけど、やりたいならやらせてやるよ」
そこまで傲岸不遜ではないにせよ、それに近いものがあります。

このコンクールに参加する学生は一生懸命なのに、
主催関係者がこんな態度では哀れな感じがします。


2015年8月12日

一日一華:冬の庭から


メルボルンの8月は冬本番。
しかし、我が家の庭の一番いい時期かもしれない。
梅が終わって、桜のつぼみが膨らんでいます。
ぼけ、こぶし、椿、馬酔木、
皆、きれいに咲いてくれています。

この作品にも庭の柊南天を使っています。



2015年8月11日

一日一華:渡辺謙の執念


バララット美術館からの制作依頼
待望の仕事です。

アーチボールド賞展。
豪州で最も人気の展覧会のひとつ。
数十万人の動員があります。
その展覧会の広告塔を制作してくれ、
肖像画展にちなんで巨大な人物の頭を制作してくれ、
というリクエスト。

華道家は彫像などやらないでしょう。
守備範囲が違います、と断ってもよかったのです。
やれるかどうか、分からないのですから。

しかし、断っても、
また、承諾して、失敗しても
新参の彫刻家としての私のキャリアは終わりです。
あとがありません。
著名アーティストとは立場が違います。
彫刻家の看板を下げ、華道家としてやっていく、
それもいいかもしれません。

迷っていたとき、実はある人物のことが思い当たりました。
詳しくは知らないのですが、渡辺謙という俳優。
同郷出身というだけで少し親しみを感じます。
同じ雪に吹かれて育ったのかもしれない。

ミュージカルでトニー賞を取ったとか?
詳しくは知りません。
ただ、俳優とミュージカルのシンガーとでは
全く別の世界です。
特にブロードウェイとなれば
音楽のレベルが桁違い、
英語のレベルが桁違い、
それを乗り越えて高い評価を勝ち取るというのは
相当な努力、執念があったはずです。
日本国内の評価で満足しているのと
国際レベルで勝負するのとでは話が違います。

それを思うとなぜこの程度の壁が超えられないのか?
トニー賞と比べたら、実に小さい試練!
海外で勝負する覚悟で日本を出ているわけです。
一か八かやってやったらいい、
と覚悟ができた次第。

2015年8月10日

一日一華:スピアグラス


メルボルンの花菱レストランにて。
レストランでの花材選びはなかなか大変です。
花の香りが強すぎてもいけない、
花粉症を引き起こすようなものでもいけない、
結局、店主さんが注意深く用意して下さった花材で活けます。
なかなか楽しい仕事です。

さて、私のいけ花の生徒には、
オーストラリアだけあって
様々な文化の出身者がいます。

フィリピン、ベトナム、中国、英国、ロシア、ポーランド、NZ、そして、日本ほか。

先日、ふと中国人が増えてきたことに気付きました。
あるクラスでは半分ほどになっていました。

飲茶の話になって、鶏の足は食べたくないとか、
食べたことがあるかとか。

私も初めてテーブルに鶏の足が給された時は
少々驚きました。

中国の奥様方によると、あれは手間が大変で、三重に調理しているのだとか。
揚げて、煮て、蒸してというようなことらしいです。
家庭でやる料理ではないとのこと。

また、食べたいとも思いませんが、
ちょっと勉強になったかな。

それより興味深かったのは、
奥様方が、
他人の視線を顧慮するような方ではないだろうという方までが、
鶏の足の話は、少し遠慮勝ちに話していたこと。
ちょっと恥ずかしいことをしてしまって、
その弁解をしているようなニュアンスでした。

2015年8月9日

一日一華:勅使河原宏の新境地


いけ花の先輩の方々、著名な先生方の作品を拝見していると、
ある時点で独自の境地を開かれるのだな、とよく感じます。
その点では多くの方が共通しています。
しかし、作品は二つのタイプに分かれるように思います。

ひとつは、解釈可能な作品。独特の作品でありながら、多くは国際的な現代芸術の文脈で解釈可能な作品。

もうひとつは、解釈不可能な作品。作者の圧力のこもった作品であることは理解出来ますが、なんら意味を生成しない作品。独りよがりな作品。場合によってはそのような作品を新しい境地を開いたなどとありがたがっているのかもしれませんが、私には勉強不足かつ徒労に思えます。もちろん、現在の私自身が勉強不足ということかもしれません。いけ花の奥深さがまだまだ分かっていない、それは確かでしょう。

90年代、勅使河原宏は流麗な割竹のインスタレーションを多く作っていました。ある意味で分かり易い作品群でした。

それが、最晩年、竹の格子を重ねたような作品を作り始めました。
独自の境地を開いたということだったかもしれません。
多くの方々はうまく理解できなかったようです。
しかし、西洋の現代芸術のコンテクストを参照すると、
作品の解釈が可能なのです。
私の初めての宏論はそういう趣旨でした。

(2013 Hiroshi Teshigahara in the Expanded Field of Ikebana,
The International Journal of Ikebana Studies, 1, p.31-52.)

いろいろなことを深く勉強された方だったのだろうと思います。
だからこそ独りよがりな境地などに陥らなかったのでしょう。

一日一華:ジャスミン


スタージャスミンとか
チャイニーズジャスミンとかいう常緑のツル。
我が家の庭のへいを緑で覆う計画で育てています。

伸びすぎたものは切り取っていけ花の花材。

手前のツルの曲線と花器の間、が写真ではうまく出ていない。
写真は難しい。

2015年8月8日

2015年8月6日

一日一華:フリージア


メルボルンは真冬。
過去数十年で最も寒い冬だとか。
庭の花が咲いてきました。
ぼけ、こぶし、沈丁花、アセビ、
そして、去年買ったばかりの加茂本阿弥。
すべて白。
白い花、
花の白さには特別なものがあります。

写真は逆光でフリージアの白を強調してみました。


2015年8月4日

21世紀的いけ花考(38)



 「いけ花は芸術か?」という話です。まずは、近現代の芸術、いけ花、それぞれの歴史をざっと抑えておかないとまとまった話になりません。要は20世紀における芸術の流れと、いけ花の流れ、この両者はどこでどのように交錯したのか?いけ花のほうは比較的分かり易い。しかし、芸術のほうは波乱の1世紀でした。

 数年前、ロンドンのTate美術館でアーティスト・タイムラインという20世紀芸術史の簡略な年表を見つけ、「これが欲しかったんだ」と喜んで買ったものです。一枚の紙に後期印象派からヤング・ブリティシュ・アーティスツあたりまでの主要な芸術運動が主要作家の名前とともに記してあります。しかし、実はこんなものをにらんでいてもさっぱり核心的な部分が分かりません。様々な運動が次々に現れては消えていく。まるでファッションの流行のようです。短いスカートが流行ったり、黒色が流行ったり。もっと深い、芸術の変動の要因のようなものがあるはずなのです。
 
 書いてあることで納得するというのは高校生まで。大学以降は自分の腹で納得しない限り、知的探求を止めてはいけません。自分で納得したことだけが表現する意味があるのだと思います。20世紀芸術の混沌、これは何だ?とあれこれ考えていきました。現代芸術に関する日本語の本も読んでみましたが、なんとも分かりにくい。大学院で訓練を受けた私でも分からない。頭の悪さを隠すためにこんな大業な文章を書いているのだ、というのが私の結論。

 おそらく私と同じような意見が多かったのでしょう。最近、分かり易い現代芸術の入門書が多数出版されています。私が特に気に入ったのはオックスフォードから出た T. Barrett 著 Why is That Art? 現代芸術講座のテキストとして多数の芸大で採用されているとのこと。次回はこの本を参考に現代芸術の流れを簡単にまとめてみましょう。

 今月紹介するのは小品。材料をバランスよく組み合わせただけ。ある程度いけ花をやれば容易に作れるレベルでしょうが、作っている過程は瞑想とも言える楽しい時間。この作品を来年度の無料カレンダーに使うことにしました。なお、リビング・ナウ誌でも連載が始まっています。また、いけ花学習者の国際コンクール、いけ花ギャラリー賞も間もなく受賞者発表。詳細は私のサイトからどうぞ。


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