華道家 新保逍滄

2016年12月25日

2016年12月24日

2016年12月23日

一日一華:メリー・クリスマス


日本では年末年始に結婚式なんてあまり聞かないと思います。
しかし、年末の結婚式がこちらではよくあります。
花の仕事も年末は休みなしです。
今年は1週間のうちにクリスマス装花に結婚式の依頼。
生産者も花問屋もクリスマスで休暇。
その間を縫うように、花を仕入れ(思うようなものが手に入らない)、
休暇中のアシスタントを探し、お手伝いを依頼し、
しかも、暑すぎる天候が花を痛めないかと気をもみ、
なかなか落ち着けません。

年末の結婚式は、やめたほうがいいですよ。

2016年12月21日

一日一華:クリスマス・アレンジメント


クライアント宅でのクリスマスパーティーのため3作活けてきました。
テーブルには、銀の花器にグロリオーサのご希望でした。
たくさん色を使って欲しいようですが、
私としてはできるだけ色の数は絞ったほうが面白いと思っています。
この作品も白だけにしたいくらいです。


2016年12月18日

2016年12月13日

一日一華:レセプション


緑のグラデーション。
とてもまとまりやすい色の選び方ですね。

環境芸術についての論文を用意していたら、以下のような文章に出会いました。
まさしく、まさしく!
「美」を求めようなどとやっていると、相手にされないということ!
専門家はなかなかこれほどズバリと現代芸術の一面を語ってくれないのです。
いろいろなことを考えていく出発点になる見方です。
私の論文に引用できるかどうかはまだ分かりませんが。

A great turning point in the history of Western art occurred in the Twentieth Century when art’s association with beauty first received pummelings from the cubists, futurists, and Dadaists and then was practically exterminated by pop, conceptual, minimal, fluxus, art povera, happenings, and land artists. During these years, those who remained loyal to the goal of achieving beauty were often banished to the outposts of provincialism (Weintraub, 2012: 33).

Weintraub, Linda ( 2012). To Life!: Eco art in pursuit of a sustainable planet. CA: University of California Press.

2016年12月7日

一日一華:花菱さんへ



環境芸術についてあれこれ考えています。
おそらくこれはとてもわかりやすい現代芸術の部類でしょう。
比較的、ではありますが。
概念芸術、アブストラクト・インプレッショニズム、ポップアートなど現代芸術の様々な部類と比べて、なんと解釈がしやすいことか。

しかし、このわかりやすさが気になります。
どうも機能面が強調されすぎないか。
芸術作品に機能を期待するというのは、本来とても稀なことです。
そこをもう少しきちんと考えておきたいと思っています。

例えば、エコ製品が市場に溢れていますが、
エコ的要素+製品の組み合わせです。
同じように
エコ的要素+芸術作品で
エコ・アート(環境芸術の1部門)が成立すると考えるのは
危なっかしいわけです。

一日一華:チューリップ


チューリップのなんとも綺麗な色。
それだけを見せたい。

毎年のことながら十二月は色々なことに振り回されます。
なんとか環境芸術についての論文を数日中に仕上げたいともがいています。
国際いけ花学会の学術誌に投稿できるほどのものにしたいのです。

さらに来年三月末には神戸で開催される国際学会で
環境芸術についての発表も行いたい。
もちろん、いけ花との関連も出てきます。

慌ただしい時、ブログのポストが増えます。
逃避行動でしょう。

2016年12月6日

一日一華:スイートピー


スイートピーがあれば、小品に使ってみたくなります。
クライアントさんのお宅です。

あれは、論語だったでしょうか?
あの言葉・・・
探さないと出てこないわけですが、
私がふと感じ、書き留めてきたいと思ったのは、
要は、努力の大切さ。

私自身、よく思うことですが、
努力しても、成果が得られないことはよくあるわけです。
結果が出ない。
でも努力した限り、別のところで花が咲くだろうと思っています。

問題は努力が不十分で、結果が出ない場合。
10の成果を期待していながら、2か3の努力しかしていない場合もあるわけです。
その程度の努力しかしていないなら、そんなにたくさんあてにしてはいけないのです。
でもその現実がなかなか受け入れらない人もあるようです。
境遇が悪いとか、自分は差別されているとか、愚痴が出てきます。
こういう人に対して、ふさわしい諺があったように思うのですが。
ちょっと厳しい言葉が。
そのうち思い出すでしょう。













2016年12月5日

21世紀的いけ花考 53


 前回、生花と現代芸術の違いを簡単に述べました。生花が主に感性に訴えるのに対し、現代芸術は主に知性に訴えるという特徴があるようです。その違いはまるで俳句と小説の違いのようでもあります。しかし、そのような区別は暫定的。困ったことにそんな違いを意識すると、そこからまた芋づる式に様々な疑問が出てくるのです。

 例えば、生花は作品が美しいかどうかが全てだとすると、それは芸術というよりデザインの特徴に近いのではないでしょうか?デザインとは要は見た目が全て。綺麗か否か、そこが肝心。分かり易い例としてまず西洋花について考えてみましょうか。おそらく西洋花はデザインに属するというのが一般的な了解でしょう。それは、フローリスト養成講座は芸大ではなくTAFEカレッジに属していることでも分かります。商品として成立しなければいけないという実際的な要請があります。

 ところが、その制約を無視する、「ここまでくると芸術だね」と評したくなるような西洋花もあります。おそらく売れないでしょうが。例えばベルギーの出版社から隔年で出版される「インターナショナル・フローラルアート」にはそうした作品が溢れています。この領域ではおそらく最高レベルの出版物のひとつ。私の作品も近年、連続で掲載されていますのでご覧下さい。デザインの延長線上に芸術が現れるという面はあるかもしれません。かといってどちらが上でどちらが下ということもないでしょうが。両者は便宜的に区別できるものの、西洋花においてさえその境界はかなり曖昧です。

 では、生花もデザインでしょうか?そこは意見が分かれる点。また、「生花は芸術だ」という意見も多いでしょうが、その短絡についてはこの連載で繰り返し批判してきましたね。生花と芸術の違いということで。では、あらためて生花とは何か?デザインか芸術か(あるいはデザインから芸術へ)という物差しのどの辺りに位置付けたらいいのでしょう?デザインのようでもあり、芸術のようでもある。実は、新たな視点を踏まえない限り、この疑問に答えることはできません。その視点とは何か?さらに掘り下げていくことになりますが、また来年度お付き合い下さい。

 今回紹介するのは、ある女子校の卒業式のために活けた作品。ステージいっぱいにと予定していましたが、やはりスペースの制限がありました。大好評でしたが「卒業式に花は欠かせない」というのが当地でも常識になるといいのですが。

2016年12月4日

2016年12月1日

2016年11月30日

一日一華:枝物


本年度十一月には年末ワークショップとして
 ブライダル・ブーケ
 投げ入れ
 枝物を取り入れて
という3つの課題に取り組みました。

3回目は大きな枝で遊ぼうということでしたが、
「大きな枝」とは何だ、その定義は?と尋ねられました。
なるほど。
自分でもきちんと定義したことがなかったことに気付きました。
大きな枝とは、花ハサミで切れない枝だ、というと納得してくれました。
のこぎりで切断して、もう一度集めて、組み合わせ、
ワイヤ、スクリューなどでつないで抽象的な形を作ります。
大きな作品を作るためには必要なテクニックです。
参加者はよく頑張ってくれました。
初めてのこぎりを使う、ドリルを使うという方も
何人かありましたが、とても楽しそうでした。
facebook, blog などで生徒作品を紹介予定です。


2016年11月28日

2016年11月21日

一日一華:商業花

クリニックのレセプションに。
ピンクの花はVerticordiaというそうです。

商業花ですからクライアントのご希望を大切にします。
また、あまり奇抜なものは避けたほうが無難。
典型的な商業花のいけ花を目指しています。

場所に適切なもの、サイズ、作品の雰囲気を合わせることが大切。
さらに、もちの良い花を、というのも大切な要素です。
通常1週間に1回ですから。

しかし、商業花とはいえ、作っている間は楽しい瞑想の時間で、
お金などいらないのになあとよく思います。
材料費、搬入の手間を考えると
そうも言っていられないわけですが。

2016年11月10日

2016年11月4日

21世紀的いけ花考 第52回



 いけ花と現代芸術の違いに気づくと、いけ花を、そして現代芸術をより深く理解する手助けになるでしょう。現代芸術の例として村上隆の「お花」という作品をグーグルしてみて下さい。花の中にスマイルが描かれています。それと例えば私の以下のいけ花を比べてみましょう。花菱レストランに活けたもの。

 私は村上隆については無知です。間違ってるかもしれませんが、おそらく「お花」をいくら眺めていても、作品の本質は分からないでしょう。綺麗ではあるが、子供でも書けそうだなと思いませんか?以前、現代芸術の命は意味だと書いたことがありますね。では、この作品の意味は何でしょう?

 おそらく作者は浮世絵を含む日本絵画の伝統、アニメ、アメリカ産ポップアートといった歴史を踏まえてこそ、意味が生じてくるというあたりを狙っているのでしょう。つまり、作品の意味は作品の外にあるコンテクスト(歴史や社会文化)から生じてくるわけです。さらにその意味を考えることで思想も生まれてきます。このコンテクストが分からなければ、意味も分からない。「子供の絵じゃないか」で終わってしまうのです。

 それに対し、いけ花は目の前にあるものが全て。もちろん、「この枝の使い方は伝統的な立花の現代版かな」というような歴史的なコンテクストを踏まえた解釈が若干出てくることもあります。しかし、基本的には目の前に提示されたものに美を感じられるかどうか、そこが本質であり、命です。コンテクストを踏まえた意味、思想まで発展させるということは得意ではありません。つまり、知性ではなく感性に訴える芸術です。

 これは俳句の鑑賞に似ています。「古池や蛙飛び込む水の音」という句。自然の中の静寂、寂寥感、それがこの句の命でしょう。そこに共感できればいい。もちろん禅の思想やら何やら深い解釈も可能でしょうが、それは枝葉末節。こだわり過ぎれば本質を見失ってしまいます。いけ花も俳句も感性に響く作品を作るために作者は技術を磨かなければいけません。技術は尊重されます。その習得のためには修練が必要で、その過程が道であり、人間脩養であるとするからです。

 しかし、西洋芸術では技術さえあれば誰でも描ける花の絵など重視しなかったという話を前回しましたね。技術よりも知識、想像力に訴えるものを重視するわけです。現代芸術にもその態度が続いています。

 今回のとりあえずの結論は、現代芸術は知性で鑑賞し、いけ花は感性で鑑賞する芸術だということです。 

2016年11月3日

一日一華:レモン


庭のレモンです。3メートルほどの高さに育っているのに全く実をつけないレモンでした。
ところが今年突然の豊作。おそらく冬の間、雨が多かったせいでしょう。
枝が垂れて、車の頭にぶつかります。
仕方なく2本ほど剪定。
捨ててしまうのはもったいないですね。
素晴らしい花材です。
庭の他の草花と取り合わせてみました。


2016年10月28日

2016年10月23日

21世紀的いけ花考 第51回


 現代芸術といけ花の比較論を試みています。両者の根本的な違いは何だろうと考えていたところ、それは俳句と小説の違いに似ていると思いついたのでした。「いけ花は俳句、現代芸術は小説」と考えると、それぞれの根本的な特徴がよく理解できるように思います。

 しかし、私の「いけ花・俳句試論」を始める前に、もう1点指摘しておきたいことがあります。西洋絵画史における花の位置付けです。それを確認しておくと、私の話がすっと理解できるようになるはずです。

 西洋絵画史において古来、静物画、殊に花の絵はステータスの低い分野でした。では、ステータスの高い分野とは何か?戦争の勝利や聖賢の業績を描いた歴史的絵画です。花の絵と歴史的な絵、両者がどのようにみなされていたか、ベンカード論文を参照し、簡単に説明します。 

 まず、歴史的絵画には物語があるのに対し、花の絵は綺麗なものを描写しているだけ。歴史的絵画を描くには、知識、直感、想像力など知的な能力が求められるのに、花の絵は何も考えなくても描けるじゃないか。前者は詩人、哲学者でないと描けないが、後者は技術があれば誰でも描ける。前者は作品鑑賞でまるで文学のように解釈や議論が生まれてくるのに、後者はただの描写。魂の問題もない。前者は高尚なハイカルチャー、要するに本物の芸術。後者は低俗、誰にでも受け入れられる、大衆的なローカルチャー、要するにただのクラフト(工作)という見方が一般的だったのです。19世紀後半の印象派の台頭までこうした状況だったようです。

 ここで考えて欲しいことは、花がステータスの低い題材とみなされていた、その理由。上記のように指摘されれば「そういう見方もあるか」と納得していただけるでしょうか。そして、気付いて欲しいより大事な点は、なぜ歴史的絵画が高尚とみなされていたかということ。つまり西洋芸術では何が尊重されるのかということ。実はこれ、西洋芸術の価値観。作品がただ綺麗なだけ、技術が凄いだけというよりも、作品の意味や知的なものを重視する態度があったのだ、ということを確認しておきたいのです。これで私のいけ花・俳句論への準備ができました。次回に続きます。

 今月紹介するのはFitzroy に開店した「ちょっと」に活けた作品。若いカップルが開いた精進料理カフェ。あちこちにレビューが載ったせいか、開店とともに満員御礼。完売閉店が続き、順調な滑り出しのようです。

 さて、10月8、9日には三流派合同いけ花展「和」が、アボッツフォード・コンベントで開催されます。メルボルンの小さな観光名所のひとつ。ぜひお越し下さい。

2016年10月15日

2016年10月9日

一日一華


十月九日、私たちの合同華展が無事終わりました。
とても盛況でしたから、成功と言っていいと思います。
生徒にとって有意義な経験だろうということで
参加しているわけですが、
私にとっても有意義な展覧会でした。

ただ、反省点もたくさんあります。
おそらくそれはかなり根深い文化的なものだろうと思います。
私の生徒は多くが協力的ではありますが、
まだ、運営のお手伝いという点では不足な部分が多いのです。
庶務において他流派の方々に依存しすぎているように思います。
何人かの生徒は華展開始直前に作品を持ち込み、
終了と同時に作品を運び去る。
後片付けもない。自分のテーブルさえ掃除しないという状況。

専業主婦や退職者というより仕事をしている方が多い、
忙しい生徒が多い、
まだまだ長年通っている生徒が少ない、
生徒にアジア系は少なく、ヨーロッパ系が多いというような
事情もあります。

日本で日本人を相手に、
お稽古事を教えるというのとは
おそらく、全く別の問題があるわけです。

一度、合同展ではなく単独で華展を開いて
いかに庶務が多いか、協力が必要か
体験学習してもらおうかと思っています。

2016年10月5日

一日一華:名画の前に


これほど素晴らしい名画の前に華を、というリクエスト。
苦労を察していただけるでしょうか。

グリーンゴッデス、緑の女神という商品名のカラー
を並べて立ててみました。

ある時から「忙しい」という言葉を
口にしないように心がけています。
おそらくそれは「忙しい、忙しい」とまるで念仏でも唱えるように
繰り返す人に出会ったことがあるからだと思います。
昨今、おそらく誰でも忙しいでしょう。
「忙しい」と口癖のように言っている人は
時間管理ができない人
仕事ができない人
他人のために自分の時間を使いたくない人
かもしれない。

この人はなかなかすごいなあと
尊敬できる人たちが何人かいます。
この人たちから「忙しい」という言葉を聞いたことがないのです。
私から見たら絶対忙しいはずなのに、です。
有能は人は「忙しい」なんて言わないのではないか。

とはいえ、「忙しいなあ」と
ぼやきたくなる今日この頃です。

2016年9月27日

一日一華:ちょっとさんへ


白樺に山吹、
それに、ネコヤナギ。
「北国の春」といったところ。

歌詞の中ではコブシも出てきますね。
我が家の庭ではコブシが終わって、
山吹が咲いています。
白樺も芽吹いてきました。
メルボルンはようやく春です。


2016年9月19日

2016年9月12日

2016年9月11日

一日一華:クリニックのレセプション


新しいクライアントへの春のアレンジメント。
商業花では、サイズ、その他、様々なクライアントのニーズに応えなければいけません。
おそらく発生した当時のいけ花もそうした柔軟なものだったと思います。
それが、規定の古典花の繰り返しになり、柔軟性を失っていったのかもしれません。

連翹も黄梅も我が家の庭から採取したもの。

2016年9月6日

21世紀的いけ花考:第50回


 現代芸術といけ花の違いについてあれこれ書いてきました。しかし、どうも木を見て森を見ずではないか、という感じがします。両者の相違点はたくさんあって、いずれも重要ではありますが、根本的な違いをがっちり押さえておかないことには、どうも腑に落ちないということになりかねません。

 「どちらも『芸術』。根本は同じさ」というのは浅薄。きちんと考えれば違いばかりがごろごろ出てきます。では、最も肝心な違いとは何でしょう?A Bとの違いが分かるというのはとても大切です。違いが分かると、A が、そしてBが一層よく分かるようになるからです。豪州に住んでいると日本との様々な違いに気づきますね。その結果、日本が一層よく分かるようになります。違いが分かると理解が深まるのです。A Bも同じだよ、なんていうのは、A Bも分かっていないということです。

 現代芸術といけ花の根本的な違いとは何でしょう?この違いに気付いてもらえば、芸術もいけ花も一層よく理解できるというポイントは何でしょう?現代芸術もいけ花もやる制作者としての主観的な見解ですが、両者の違いは小説と俳句の違いに似ています。現代芸術は小説、いけ花は俳句として鑑賞したらいいのではないでしょうか。もしかすると私の「いけ花・俳句論」は現代芸術の本質は西洋文化的、いけ花の本質は日本文化的というようなありきたりな文化比較論になってしまうのかもしれません。それも悪くないでしょう。現代芸術、そして、いけ花を一層よく理解してもらうのに役立てていただければ十分です。いけ花・俳句論については、次回からお話ししていきましょう。

 今月はレズリー・キーホー・ギャラリーズでの小林秀明展に小路光男の花器を使っていけたもの。オープニングには小路さんもいらっしゃったそうですが、気に入っていただけたか気になります。一杯やりましょうという約束を果たせないでいるのが残念。

 主花は木瓜。様々な使い方ができ、楽しい花材です。我が家では白、ピンク、赤、と3株育てています。この作品に限らず言えることですが、数十本の花材一つ一つを長さ、位置を計算しながら活けていく過程は瞑想そのもの。集中した無我の時間で、一度味わうと病みつきになります。多くの方に経験していただきたいものです。まずは10月8、9日の私たちの花展にお越しいただければ幸いです。


2016年9月5日

一日一華:二つの戦争


メルボルン、花菱レストランへの今週の花。

日本近隣の国々が騒々しいせいでしょう。
最近は、どこへ行っても戦争をどう避けるか、
どうしたら平和が維持できるのか、という話に巻き込まれます。

日本のマスコミは日本周辺の不安材料をあまり報道していないようで、
日本全体がのんびり構えているように見えます。
日本のマスコミは意図的に国民を白痴化しようと
努めているのかもしれません。
あるいは、根拠のない楽観主義がはびこっているのでしょうか。

「憲法改正反対」「日本を戦争のできる国にするな」という声はよく耳にします。
そうした話に注意してみると、気付くことが幾つかあります。

まず、彼らの言う戦争とは、日本の侵略戦争のことであるようです。
戦前、日本は侵略戦争を行った(と彼らは主張します)。
そのために徴兵制や軍事拡大が国是であった。
あのような戦時体制を二度と経験したくない。
というのが大まかな主張。

今現在、日本が侵略戦争を行えるでしょうか?
植民地主義が国際的に批判されている中で、
日本が侵略戦争を開始すれば、
国際連合軍相手に戦うことになります。
即、敗戦です。
それが分からないような政権が、日本の現体制から生まれるでしょうか?
日本はそこまで退化していないです。心配の必要はないでしょう。

「第二大戦前夜を見てみろ、今の日本と状況はとても似ている」
というような議論もとても多い。
これは日本人大衆の無知につけ込んで、不安を煽る意図的な議論です。
意図的と私が断じるのは、そうした議論で民衆を非現実的な幻想に閉じ込めておくことで、有利になる人、国があるからです。
現実から目をそらすよう誘導しているのです。
本当の不安の正体を見えないようにしよう、としているのではないでしょうか。

もっと、国際情勢を知り、日本の現状を理解する必要があります。
心配しなければいけないのは
外への侵略戦争に引っ張り出されることではなく、
外からの侵略戦争に巻き込まれることなのです。
戦場に無理やり送り出されることではなく、
日本が戦場になってしまうことなのです。
そちらの方こそ今、心配しなければいけない。
その上で、現状の憲法で非常時に対応できるのかな、と
考えていくべきでしょう。

いくら対外的に攻める戦争を放棄しますと頑張っても、
攻めてくる相手にはどうにも手立てがないのです。
相手が攻めてくれば、戦争が始まります。

その現実を見たくないために(あるいは意図的に隠すために)、
全く必要のない心配をしている(させている)のではないでしょうか?

日本が対外的に仕掛けていく侵略戦争と、
外部から日本が侵略され、その防衛のための戦争とを
まず、区別をすること。

前者は非現実的で心配はないが、後者は現実的で心配なのだと早く気づいていただきたい。
日本を「戦争ができない国」にすることで、前者は防ぐことができても、
後者は防ぎようがないのです。この二つの戦争を一緒くたにしてはいけません。

「戦争ができない国」であれば、平和が維持できる、一切の戦争がなくなる、二つの戦争のどちらも防げるというような議論は間違っています。
そのようなお花畑の平和論はとても危険です。
「戦争ができない国」ほど、攻めやすいものはない。
即、国土をいただき、略奪虐殺やり放題。
侵略したい国にとっては願ってもない餌食です。

以上は誰が考えても明らか。国際的な常識です。
そのことに、「今、気付いた」という方があるとすれば、それはマスコミの洗脳にかかっていたということ。

日本のマスコミの多くは
日本を侵略したい国々に近い人間達が牛耳っているのだ、
日本人白痴化を狙っているのだ、
危険な平和論で日本人を洗脳しているのだ、と
早く気づいていただきたい。

また、「侵略されたら戦争などせず、相手のなすがままにしていましょう」
「相手が欲しいという島があれば差し上げましょう」
というのに近い議論まであります。
これもまた、日本を侵略したい国々に近い人間達の言説。

チベットがどうなっているのか、
国家を失った難民がどうなっているのか、
少しでも調べてみるべきです。

関連ポスト


2016年9月2日

2016年8月30日

2016年8月29日

一日一華:ちょっとさんへ


メルボルンに新規開店した日本食カフェ、「ちょっと」さんへの花。
精進料理を基調にしたカフェというコンセプトが
場所にピッタリ合致したのでしょうか、
とても盛況のようです。
特に週末は毎週、売り切れで対応できない状況とか。

若いカップルの初のビジネスということですが、
初めから順調な滑り出しのようです。

実は、開店初日は閑散としていました。
看板も間に合わず、
ギャラリーだったスペースをそのまま使っていたので、
全くレストランらしくなかったせいでしょう。
花担当の私も少し心配しました。
ところが、新聞その他のメディアで
取り上げられると、瞬く間に満員御礼。

2016年8月22日

2016年8月20日

無料いけ花カレンダー 2017


来年度のカレンダーをご希望でしたら、以下からダウンロードして下さい。
今回はレスリー・キーホー・ギャラリーズにいけた作品を使いました。
小路光男さんの花器が素晴らしい。

https://www.scribd.com/document/320341498/Ikebana-Calendar-2017-International

2016年8月10日

一日一華:根拠のない楽観主義


メルボルンの花菱レストランにいけた作品です。

最近どこかで読んだ記事で繰り返し
使われていた言葉、「根拠のない楽観主義」
が気になっています。 

確か、第2次世界大戦へ向かう日本の言論状況についての
コメントだったと思います。
つまり、なんとなく勝てるんじゃないかという気持ちから
あまり熟考することなく国が戦争へと動いていった。
無謀で、被害が大きすぎる国難へと。
そんな指摘でした。

とても面白いと思いました。

根拠のない楽観主義、そして、その悲劇的展開。
これは日本史上何度か繰り返されているようです。
悲観的なこと、不穏な現実は考えたくないですから、
楽観的に構え、世の大勢に流されていく。
そして悲劇的結末に。

今現在もそうした言論が盛んではないでしょうか。

あるジャーナリストが、
「中国が攻めてくるなんてあるわけないでしょう。妄想ですよ」
と盛んに宣伝していました。
もちろんその通りならありがたい。

ただ、これも「根拠のない楽観主義」ではないか、と気になります。
このジャーナリストは、他の日本のジャーナリストの多くと同様、
左翼的で反日的な言論で知られている方のようです。

首相を「安倍が」などと呼び捨てにしたり(他者を貶めることで、自分が偉くなったような気持ちになるのでしょうか?)、
国内法でしかない日本国憲法を守れば、戦争は避けられるかのような
主張を繰り返したり(国際法さえ無視しようという某国がどうして日本の国内法を尊重すると考えるのか?いい子にして丸腰でいれば、誰も攻めてきたりはしないよ、ということでしょうか?)、
天皇制には反対だとかという観念論を振り回したり、
自衛隊はいらないと主張したり。

もしかすると「根拠のない楽観主義」に基づいているがゆえに、
国際社会の厳しい現実からひきこもって、
不穏な現実に目をつむっているがゆえに、
反日を主張できるのではないか?
お花畑の平和主義者をやっていられるのではないか?

「根拠のない楽観主義」は、
根本に甘えがあるのかもしれない。

それよりもっと重要なことは
「根拠のない楽観主義」は多くの人を不幸にしかねない
危険な思想傾向だということ。

右翼にも左翼にも影響を受けすぎることなく、
自分の頭で、現実に基づいて、できれば冷静に、
現状を考えていくことができるといいのになあと思います。

関連ポスト:http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_23.html

2016年8月9日

21世紀的いけ花考 49


 いけ花は現代芸術になりうるか?と様々考えてきました。おおよその結論には達しました。これからは少し補足です。

 現代芸術がいけ花と大きく違う点のひとつは学術的な体系ができていること。私がコンテクストとか批評の充実として説明してきたこととも関連しています。その結果、どうなるか?現代芸術家は文武両道であることを求められるのです。もちろん比喩ですが、文とは現代芸術の理論や専門的知識のこと。武とは実技のこと。モダン芸術以降、何でも芸術の素材になるという考え方から、実技と言っても分かりにくくなっていますが、素材にどのように手を加え、面白い作品に変容させているかということ。特に、大学の芸術学部スタッフとなると一般に文武両道が求められます(もちろん、文だけ、武だけの先生もあります)。

 しかし、私の知る限り、本格的な文武両道の芸術家は少ないようです。理論が強い人でも作品がトホホであったり。作品は素晴らしいのに論文はアチャ〜であったり。ある博士論文を読んでいて驚いたことがあります。1ページに1回くらいパワフルという形容詞が出てくるのです。芸術作品の評価をするのに使っているわけですが、こんな論文でいいのか?と思ったものです。ともかく文武両道はとても達成が難しい。でもそこを建前上目指しています。
 
 その点、いけ花は分かりやすい。武(実技)だけです。武だけで師範にも教授(?)にもなれるのです。もちろん、若干文も求められる場合もあるでしょうが、学問的には脆弱です。

 いけ花においても文を追及できないか。私が所属する国際いけ花学会の任務はそういうところにもありそうです。年刊学術誌も3号発刊済み、会長、副会長共に近年重要な書籍を出版されました。なおこれらの書籍は全てモナシュ大学図書館に収蔵されています。今後いけ花はもっと深くなっていくでしょう。

 今月は今年の5月に行ったいけ花パフォーマンスの作品を紹介しましょう。約40分間、尺八と琴の生演奏をBGMに黙々と活けていきました。いろいろな見せ方があると思いますが、瞑想しながらひたすら生けるところを見てもらいたかったのです。


 さて、8月にはオンライン国際いけ花コンクール、いけ花ギャラリー賞の発表、10月にはアボッツフォード・コンベントで合同華展・和が開催されます。詳細は私のサイトからどうぞ。

2016年8月8日

2016年8月2日

一日一華:ギャラリーに


レズリー・キーホー・ギャラリーズでの展覧会の
オープニングにいけ花を依頼されました。
オーストラリアを代表する陶芸家の一人、
Shoji Mitsuo 氏の花器です。
木瓜を使って楽しい瞑想の時間を過ごしました。

これは今日教室でこの作品について話したことですが、
50本ほどの木瓜を一本一本
長さ、位置、角度を計算しながら活けていくわけですが、
「その苦労をどれだけの人がわかってくれるのかねえ」
と言うと、
「私たちは分かりますよ」という返事。
皆苦労していますから。


2016年8月1日

新規開店の祝い花





メルボルンに新しく開店した日本レストランの祝い花を依頼されました。
二メートル四方のテーブルの上に。
花を囲んで食事していただきます。
精進料理を基本とした和食カフェ。
おそらくメルボルン初のコンセプトでしょう。

以前、ギャラリーだった店ですから、
とてもすっきりしたインテリア。
いけ花に最適です。

Chotto, 35 Smith St, Fiztroy, Melbourne


2016年7月26日

いけ花ギャラリー賞セミファイナル発表


いけ花ギャラリー賞セミファイナル作品が発表になりました。
以下のブログでご参照下さい。
http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/2016/07/semi-finalists-for-ikebana-gallery.html
また、以下のフェイスブック・ページから人気投票を受け付けています。
アルバム中の15作品からお気に入りの作品がありましたら、3作以上をLikeして下さい。おひとりあたり3作以上としているのは、ファイスブッックの友達の少ない生徒が大きな不利にならないようにするためです。
https://www.facebook.com/IkebanaGallery/photos/?tab=album&album_id=900827010046460

今後とも皆様のご支援をお願いします。

2016年7月21日

インターナショナル・フローラル・アート



Inernational Floral Art 2016-2017に作品が掲載されました。
2015年度のMelbourne International Flower and Garden Show への出展作です。
https://youtu.be/Z31-LwhP1DI
この作品は確か3日間で作ったものですが、時間が足りず苦労して仕上げたものです。協力してくれた私の生徒、スタッフに改めて感謝。

Inernational Floral Art の掲載作品は西洋花が中心です。
かなり質の高い作品が並んでいます。西洋花関連では最高権威の出版物というような謳い文句で流通しているようです。

西洋花といけ花の違いは?
西洋花と芸術の違いは?
いけ花と芸術の違いは?
ページをめくっていると、そんなことをつい考えてしまいます。

これら3者は、大まかなところで接しています。
隣接する3つの輪を描いて下さい。
それぞれの領域をずっと拡大していくと、接する部分が出てきます。

ただ、本質的な違い、根本の違いというのもしっかり認識しておく必要があるでしょう。
私がメルボルンの日本語新聞「伝言ネット」に100回以上連載中のエッセイでも重要なトピックです。このブログに「21世紀的いけ花考」として転載しているものです。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/07/blog-post_11.html

本質的な違いを考えていく際の焦点となるのは次の2点でしょう。
自然に対する態度の違い
歴史的文脈の違い
私にとっては興味深いトピックです。

2016年7月18日

一日一華:レストランにいける



メルボルンの花菱レストランにて。
商業花ですからあまりに実験的なことはできませんが
それでも基本を押さえつつ、
毎回、遊ばせてもらっています。
同じような骨格の花を何回か紹介してみます。

時間制限の中で
夢中で過ごす数時間は気持ちのいいものです。


2016年7月15日

ホーム・パーティーの花


常連のクライアントからホームパーティーの花の依頼。
通常、中作ひとつ、テーブルのセンターピース、そして、小品という組み合わせ。
この作品は最小のもの。
白いチューリップを見つけるや、
これしかない、とメインの花に。
脇役はピンクのバラでしょう。

2016年7月12日

オンライン指導



生花のオンラインのコースも完成していますが、まだ、正式に公開はしていません。
しかし、生徒の一人が国際的なビジネスに関わっていて、定期的に教室に通えないため、彼女の希望でオンラインで教えています。
上の作例の通り、彼女への指導は比較的うまくいっています。
やはりお互い実際に会っているということが大切かなと思います。
顔を合わせたことがない人にオンラインだけで指導というのは
生花の場合、難しいかもしれないですね。

それでも以下の通り、希望者には対応しています。

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