華道家 新保逍滄

2017年2月2日

一日一華:レセプションに。芸術と解釈と(1)


ピンクのデルフィニウムです。
当地では珍しく、値段も普通の青いものに比べ2倍。
それでも使ってみたくなります。

医院のレセプションで、癒しをテーマにした作品を
というリクエストですので、ふさわしいでしょう。

さて、数日前、安倍公房のインタビューをYou Tubeで見ました。
小説とは何か、さらに、芸術とは何か、
芸術作品の解釈はどうあるべきか、などと
あれこれ考えてしまいました。

自分の小説が学校の教科書に載り、
この作品の主題、作者の意図を答えよというような問題が付いている。
あんなもの、答えられるわけがない!
自分でも答えられない。
答えられたなら、小説など書かずに、
その主題というやつを、自分の主張として発表するさ、
というような話でした。

さらに、小説とは地図のようなものだという指摘も私には面白い点でした。
私は地図が好きです。
まもなく初めて神戸に行く予定ですが、
行ったことのない土地の地図を眺めては
あれこれ想像するのはとても楽しみです。

小説が地図だということは、
そこから様々な意味が無限に読み取れるということです。
それが一つの生命体のように。
小説とは一つの生きた世界なのです。
無限の意味生産装置といえば味気ないですが。
作家はそれを創造し、提出するだけ。

それにもかかわらず、小説作品を評して、
「作者の意図」「作品の真実」
などとその意味を固定してしまうのは、
小説の命を奪う行為でしょう。
文芸評論家や学校の先生のやっていることは
そういう不毛なことなのです。

この解釈の問題は現代芸術のコンセプトを考える際にも気になる点です。
西洋現代芸術の特殊性はその辺にもあるのではないか。
さらに生け花ではこのような問題があるだろうか、
などと考えています。
続きはまた気が向いたときに。

ここで書いたことは覚え書き。
「21世紀的いけ花考」に、もう少しまとまった形で書いていきます。



Shoso Shimbo

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