華道家 新保逍滄

2017年9月26日

一日一華:レンギョウ



メルボルン大学で開催された The Japanese Australian Poetry Festival のためのいけばな。

連翹は我が家の庭から。

毎年色々な機会に使っています。
今年は、今回が最後でしょう。

連翹は1年のほとんどは、あまり綺麗な植物ではないですが、
春のこの彩り、ほんの数週間のためには、納得。
庭が明るくなるし、いけばなにも使える。
重宝しています。

2017年9月24日

一日一華:結婚式の花準備中


結婚式の装花を準備中。
今週は全てこのプロジェクトのために。

いけばなだけやっていければいいのですが、
そうもいきません。
私の特殊な事情によるのでしょうが、
彫刻もやれば、西洋花もやります。
庭のデザインまでやります。

今回はバラだけで約2000本を注文済み。
それくらいのスケールのプロジェクトです。

問題は人手がないこと。

おそらく日本で先生が個展をやるということになると、
生徒さんはボランティアで協力してくれるでしょうね。
勉強になるはずです。

安い月謝で教えてもらっているのだから、
こういう機会にお返ししなければ、ということもあるでしょう。

今回の仕事は私にとって個展のようなもの。
しかし、私の生徒からはなかなか協力が得られません。
お金を払っても難しいでしょうね。

文化の違いですから、仕方ないのです。

プロの集団を雇えればいいのですが、
このような仕事が頻繁にあるわけでもない。

お金を払っても、また難しい。
あまり仕事ができない方にお金を払い、
仕事ができる方、例えば私の生徒にはボランティアでお願いするというような
おかしなことにもなりかねません。

なんとかいい方法を見つけたいのですが。

2017年9月19日

一日一華:穢れとしてのプラスチック


オーストラリア人原住民の信仰には、
自然と共生するための叡智が多く含まれているようです。

それは神道でもそうでしょう。
穢(けが)れとして禁忌してきた信仰の背後には
エコシステムを維持するために意義深いものがあるようです。

自然を守るために、自らの行動を慎む、ということ。
それは叡智と言えるでしょう。

「古代信仰の叡智に注目を」と何人かは繰り返し訴えていますが、まだまだ。
資本主義社会は欲望追求に忙しい。
自らの行動を慎むなどという考えは微塵もない。

例えば、自然の立場からすれば、プラスチックなど極めて有害。
海洋に浮遊しては、亀などの水生動物が誤って食べて悶絶死、
海底に沈んでは、マイクロ・プラスチックとなって小生物まで汚染し、殺す。
当然、人体へも危害を及ぼす。
「プラスチックは穢らわしい」という感覚が生まれ、
それを信仰にまでもっていけないか。

地球環境の汚染、疲弊をどうしたらいいのか。
あれこれ考えざるをえません。

2017年9月11日

一日一華:そして書くということ(4)


今年も国際いけ花学会の学術誌のエッセー部門の編集のお手伝いをしています。
いけ花体験談など募集中ですので、ぜひご投稿下さい。
2017年度は九月末日締め切り。
日本語では900字程度。
投稿料は無料で、採用された場合、学術誌を1部進呈します。
http://www.ikebana-isis.org/p/toukoukitei.html
https://ikebanastudies.wordpress.com/2017/09/01/call-for-ikebana-essays-4/

編集作業の苦労については以前にもここに書いたことがあります。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_17.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_30.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/01/blog-post_86.html

900字程度という短さですから、個人的な体験談、発見、洞察などでまとめるのが無難でしょう。

先に、ボツになる例として、他人を批判するような内容のもの、
事実を羅列しただけのもの、などをあげました。

今年も早速、ボツにしたエッセーがあります。
今回の問題は根っこの部分では、上にあげた2例ととてもよく似ています。

日本の侘び寂びとは、こういうもので、いけばなではこのように具体化されている、というような内容でした。

面白い内容です。
でも、ボツです。

おそらく私も大学生の頃、そんな種類の文章を書いていたかもしれません。
哲学めいたエッセー。

それはそれでいいのです。例えば、ブログに発表するとか、チラシに使うとか。そういうことならそれでいいのです。

でも、大学の先生に提出したらば、ボツでしょう。

私にも苦い思い出があります。

豪州の大学で最初の修士を始めた頃、学士論文を英訳し、要約を提出しろと求められたのです。

内容は、原始仏教の縁起論をデリダの理論を応用して読み解くといったようなものでした。自信満々で提出しました。

ところが評価は最低のD。

不満でしたから、当時、東大の客員教授をしていたオーストラリア人の友人に送って、読んでもらいました。

Dが相当!という返事。

Distinction のDだったのか?と思いましたが、今は、ダメということがよくわかります。オーストラリアの大学院で鍛えられたせいです。

さて、どこがいけないのか?

侘び寂びのエッセーの例で説明しましょう。問題の根っこは同じですから。

まず、侘び寂びというような美学用語はきちんと定義しないといけません。その上で使うこと。様々な解釈が存在しますから、なぜそのような意味で用いるのかという説明も必要です。

「自分はこう考える」というのもいいですが、他人の定義を踏まえ、批判し、その上で自分の解釈を持ち出すこと。

そうした準備がなく、「私の解釈では侘びとはこれこれだ」などとやられても、話にならないのです。

結局、こうした難しそうな専門用語はできるだけ使わないことです。書いている本人は、知識をひけらかしたいのかもしれませんが、逆に、無知を晒しているだけなのです。

この辺のところは、分かる人には分かる。
分からない人に説明するのはとても難しいです。

かつての私もなぜあの画期的な哲学的学士論文が評価されないのか、全く理解できませんでしたから。

ともかく、ここでの結論は、「短いエッセーでは専門用語は避けよう」ということです。

2017年9月4日

21世紀的いけ花考 第62回



 生け花は精神修行か、という話です。生け花は道徳でも宗教でもない、「芸術」だ、というのが重森三玲の主張。生け花を大きく変えました。重森については作庭家としての評価は高いのですが、生け花研究家としてはまだ評価が定まっていないように思います。資料が少ない上に私の勉強不足もあって、詳述はできませんので悪しからず。重森の主張で最も気になるのは、彼が「芸術」をどのように捉えていたのか、ということ。それが生け花をどのように変えたのでしょう?

 戦後から現在まで、生け花は芸術だという主張が主流です。その主張の根本は重森の芸術観だと言えるでしょう。よく議論されるのは、生け花の材料である草木への重森の態度。「それをどんなに曲げ様と、折ろうと勝手であり、さうすることにって草木が可愛そうだとか、自然性を否定するとか考えている人々は、頭から挿花をやらぬ方がよい」つまり、自己表現のための素材でしかないという唯物論。利用するだけの客観的な対象物。ここは注目したい点。

 実は、生け花の精神性は様々な切り口で議論することができます。型、自然観、修行論、素材論等々。畏友井上治さん(京都造形芸術大学)の「花道の思想」(思文閣)でもその多重性が詳しく議論されています。おそらくここまで深い論考は生け花研究始まって以来の成果でしょう。そうそう、この本の元になった論文に感心して私がファンレターを書いたのがきっかけで国際いけ花学会を共に創設するに至ったのでした。

 ただ、生け花の素材としての草木への態度の奥にある日本人の精神性については、あともう少し掘り下げて欲しかったです。依代としての草木への態度が、生け花の起源の一つとして言及されるのですが、その後、神道的な要素と生け花との関連が深く議論されることはほとんどありません。

 本来、花は日本人にとって神聖なもの。そこが納得できると、重森の主張がいかに生け花の伝統に反するものか、そして、重森の思想を引き継いで発展した草月流をはじめとする戦後の前衛生け花運動が、伝統的な生け花といかに断絶するものであるか、理解できるでしょう。次回は日本人にとっての花とは何かについて、再確認しておきましょう。

 今回紹介するのはレセプションへの商業花。いろいろ試みて楽しんでいます。

 さて、8月に生け花ギャラリー賞の発表がありました。1万6千人超の注目を集めるコンクールとなりました。また、10月7、8日には和・華道展がアボッツフォード・コンベントで開催されます。お見逃しなく。

2017年9月3日

一日一華:オンライン指導


生け花のオンライン指導についてもあれこれ検討しています。
とりあえず、作品の添削指導をやっています。
http://www.shoso.com.au/p/e-learning.html

私の生徒からのリクエストでやっていることが多いのですが、
最近は面識のない方からのリクエストにも応じています。

利用してみようという方は歓迎です。

おそらくこれはそこそこの可能性を秘めていると思います。
そこそこです。
利用者に、どこまで満足してもらえるか。
難しい面がたくさんありますから、どこまで伸ばせるか、未知数です。

最も難しいのは、教材の一方通行ができない点。
与えるだけでなく、個別の対応が求められるという点。
ビジネス的にはあまり効率が良くないのです。

私としても、本当にやる気のある生徒でないと、
わずかなお金のために自分の時間を費やしたくはないです。

私の生徒(生け花師範)に協力してもらって、もっとシステム化できないか
という事も検討しています。

もう一つはオンラインコース。
こちらは教材は出来上がっていますが、もう少し手を加えたいというのがあって、なかなか発売に至っていません。
おそらくこちらはかなり大きくなる可能性はあると思います。

なぜなら、現在の日本の生け花の多くは家元制に依存していますから、
どの花道流派もオンライン指導には手をつけられないのです。
家元制は、オンライン指導などが広まると、立ちいかなくなります。

つまり、オンラインで学びたいというニーズはあるのに、指導しようという人がいない、というのが現状なのです。

しかし、オンラインで生け花はどこまで学べるものでしょうか。
本当にやろうとなると、試行錯誤を覚悟することになるでしょう。

Shoso Shimbo

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